永久欠番「100」チームをこよなく愛した初代オーナー。大社義規氏
大社義規氏は日本ハム創業者で、球団の初代オーナーだ。
球界きっての野球好きであった大社オーナーは、球場に通っては選手に声を掛け、頻繁に観戦していることでも有名だった。自らを「ファイターズ一のファン」と語り、ファイターズの試合中は「選手たちに失礼だから」と大好きな酒にも手を伸ばさないほど、その思いは深かったのだ。
在任中に日本ハムファイターズが優勝したのは1981年の1回のみ。この時日本シリーズは逃し、日本一達成は大社オーナーの悲願となった。
2005年、大社義規氏90歳にて逝去。
2006年に日本ハムファイターズは悲願の日本一を達成し、大社オーナーの遺影を持った養子の啓二氏が選手に胴上げされている。
2009年、大社義規氏は特別表彰で野球殿堂入りし、背番号100は永久欠番となった。
準永久欠番「86」親分の愛称で親しまれた名物監督。大沢啓二氏
大沢啓二氏は、1965年に現役を引退した後、オリオンズのコーチと監督を経て、1976年に日本ハムファイターズの監督となった。就任後、大沢監督はチーム改革に取り組み、1981年には初のパリーグ優勝を成し遂げたのだ。翌年も半期優勝を勝ち取り、パリーグの人気を盛り上げる。
大沢監督は1984年には辞任。球団常務となり、チーム強化のために「ファイターズタウン鎌ケ谷」誕生に尽力した。その後、1993年から翌年まで、再び日本ハムファイターズの監督を務めている。
べらんめえ口調で親分肌。歯に衣着せぬ言動と貫禄のある容貌で、「親分」と呼ばれ、人気を集めた名物監督だった。
「ハム」とも読める86番は、大沢監督自身が決めた背番号。大沢監督のみが使用し、退任以降は欠番となっている。
欠番「79」北海道日本ハムファイターズでの活躍途上で急逝。小林繁氏
小林繁氏は、現役時代には読売ジャイアンツと阪神タイガースで投手として活躍し、最優秀投手、沢村賞、ベストナインでそれぞれ2回表彰されるなどの功績を残している。
1983年に引退すると、テレビのスポーツ番組やニュース番組に出演し、野球解説者やスポーツキャスターとして、新たな才能を見せて活躍した。
1997年からは近鉄バファローズ、2007年にはSKワイバーンズとコーチを歴任し、2009年には北海道日本ハムファイターズの2軍コーチに就任する。
来期には1軍の投手コーチにと内定もあった2010年、自宅で倒れ、緊急搬送された病院で急逝した。享年57歳。心筋梗塞による心不全だった。
小林コーチの背番号79は期間限定の欠番となり、2012年に就任した西俊児コーチが引き継いでいる。
まとめ
北海道日本ハムファイターズの永久欠番を、準永久欠番と期間限定欠番も含めて紹介した。
チームを愛し、選手から慕われ、多くの人々に親しまれた選手たち。成した功績はもちろん、その思いや人となりも、欠番となった背番号と共に称えられ、語り継がれてゆくのだ。