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歴代ドラフト1位の選手〈2〉中日ドラゴンズ編

2017 2/21 19:13
野球
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Photo by Eric Broder Van Dyke / Shutterstock, Inc.

歴史ある中日ドラゴンズをけん引してきた選手達の中でも、特に歴代のドラフト1位入団で活躍した選手たちにスポットをあてて紹介していく。

「ミスタードラゴンズ」中日ドラゴンズ立浪和義選手

立浪和義選手は、PL学園高校時代からその野球センスは抜群で、1987年には甲子園春夏連覇を達成。これにより評価も高まり、中日に1位指名で入団。入団後は1年目から1軍でキャンプをスタート。開幕戦2番ショートで先発出場を果たすと二塁打を放つなど活躍。オールスターゲームにも出場し、新人王とゴールデングラブ賞も獲得する。
1993年から1994年にかけては、守備機会連続無失策記録を712回とするなど、その鉄壁な守りにますます磨きをかけていくことになる。2008年以降はコーチ兼任での出場も多く、翌2009年に引退。日本プロ野球記録となる二塁打数の記録をもっている。

「巨人キラー」中日ドラゴンズ今中慎二投手

大東校舎時代は、甲子園出場こそなかったものの、145km/hを超す速球を出すなどスカウトの目にとまり、1988年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団した今中慎二選手。入団後はフォームの改善などに時間を費やしたり、スプリットの習得など技に磨きをかけていく。入団1年目は10勝をマーク。1993年には自身初の開幕投手を務め17勝を挙げる。
最多勝利、最多奪三振も獲得し、沢村賞を受賞するほか、ベストナイン、ゴールデングラブ賞も獲得するなど大活躍を果たす。その後4年連続で開幕投手を務め、中日の左のエースとしてチームを引っ張り続けた。現役引退後は、中日の投手コーチを歴任し、現在は野球解説者としても活躍を続けている。

「剛速球の持ち主」中日ドラゴンズ与田剛投手

与田剛選手は、NTT東京在籍時に記録した150km/hを超える剛速球が注目を浴び、1989年中日ドラゴンズに入団。入団からすぐ延長でのリリーフ登板を果たし、その後も抑えを任されることになる。1年目からオールスターゲーム選出や、31セーブを挙げるなどして新人王を獲得するなど大活躍を果たす。
1992年にも23セーブをあげチームのストッパーを務めた。1993年以降はひじ痛などケガに泣かされ引退。引退後はNHK野球解説者やWBC投手コーチも経験。現在は東北楽天ゴールデンイーグルスで投手コーチを任されている。

「限界を超えてまで挑戦」川上憲伸投手

川上憲伸選手は、徳島商業を経て明治大学へ進学。大学在籍時は6大学リーグでも大活躍し、通算28勝とベストナインに3回選出されている。1997年には中日を逆指名し、ドラフト1位で入団。1998年の1年目は開幕から1軍先発ローテーションに入り奮闘。14勝を挙げてセリーグの新人王に輝く。
その後も活躍を続け、2004年にはリーグ優勝に貢献する働きを見せ、リーグ最優秀防御率を含む9タイトルを奪取し沢村賞を獲得する。2005年以降も2ケタ勝利を挙げ続け、2007年には日本一を経験。2009年にFAを行使してブレーブスへ移籍する。2012年には中日に復帰し2015年まで活躍。引退後は現役復帰を目指しながら手術のリハビリ中だ。

「強肩と長距離打てるパワーの持ち主」福留孝介選手

小学生時代にあこがれの立浪選手にサインをもらいにいった話が有名な福留孝介選手。その11年後に同じチームで再会を果たす。PL学園高校時代は、1年生から4番打者を務めるスラッガーとして活躍し、1995年のドラフト会議では、高校生最多の7球団指名となる。この年は社会人に進み、1998年中日を逆指名して入団。入団以降,サードを務めていたが、2002年にライトへ変更し定着。その強肩と俊足が生きる形となる。
打撃もさらに向上するようになり、この年には、松井秀喜の三冠王を阻む首位打者を獲得するなど大活躍。翌2003年には3割30本を達成し、スラッガーとしての才能をいかんなく発揮。2007年にはカブスへ移籍。その後インディアンス、ホワイトソックス、ヤンキースと移るが2012年に阪神へ入団し、日本球団へ復帰する。NPB1500本安打を達成するなど現在も尚、活躍を続けている。

まとめ

中日ドラゴンズの歴代ドラフト1位選手を紹介した。投手から野手まで、数々の記録と記憶に残っている名選手ばかりだ。現役を続けている選手やコーチとしてチームを支えている彼らの今後をまだまだ応援したい。