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広島東洋カープの18番を背負ってきた名選手5人

2016 7/31 18:20
18番
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カープでは過去に数々の名投手が18番を背負ってきた。2016年現在は空白になっているエースナンバー、過去に背負った名投手を紹介する。

マエケン体操・前田健太投手

トップバッターは2016年シーズンから、メジャーリーグのロサンゼルス・ドジャースで活躍している前田健太投手、通称「マエケン」だ。ちなみに、前田投手はドジャースでも18番を背負っている。

名実ともに球界のエースだった前田投手は、その絶妙な変化球のコントロールと直球のキレで、毎年コンスタントに好成績を残していた。

小学生のころからすでに頭角を現しており、西日本優勝など、31個ものタイトルを引っ提げて、中学では「忠岡ボーイズ」に所属。そこでも西日本大会で優勝、世界選抜のメンバーに選ばれた。

世界大会でも優勝しMVPを獲得。その後はPL学園でも活躍し、2006年のドラフトで広島東洋カープから1位指名を受けて入団。 まさに、野球エリートの道を真っすぐに歩んでいる名選手だ。

初代18番・竹村元雄投手

広島東洋カープは、1950年に設立された球団だが、その初代エースナンバーを背負ったのが、竹村元雄投手であり、しかもカープ初の外国出身投手だった(竹村投手は台湾出身)。

1949年に阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)に入団したが、一軍出場機会のないまま1年で退団。翌年にカープが誕生するに当たって、チームメイト数人とともに入団した。

当時の広島カープには、確たる親会社がなかったため、資金繰りが難航。そのため、選手を獲得する資金が足りないので、選手が不足していた。

そんな中、竹村選手は8試合に登板したが、価値を挙げることなく同年末に引退。ちなみに竹村投手は打者としてヒットを1本だけ打っているが、それがホームランという珍しい選手だった。

長谷川良平投手

長谷川良平投手は、広島東洋カープの背番号18番を、エースナンバーにした名投手だった。愛知県の半田商工高を卒業した後、4つのノンプロチームで活躍していた。

1950年に広島カープの入団テストを受けたところ、何人ものバットをへし折り、入団が決定した。プロ野球選手としては小柄(167cm)ながら、再度スローから胸元を突くシュートを決め球に、バッタバッタと打者を切って取った。その姿から「小さな巨人」の異称で称えられている。

1年目から15勝(27敗)を挙げる活躍。1955年には30勝(17敗)で最多勝利投手賞を獲得。通算成績197勝208敗防御率2.65と、弱小球団に会ってみてはケタ違いの好成績を残している。

優勝請負人・福士明夫投手

1977年に、当時の広島東洋カープの古場竹識監督の希望で、南海ホークスに所属していた金城基泰投手との交換トレードにより、カープに移籍した。カープでは6年間背番号18を背負っていた。

ちなみに交換ドラフトの相手だった金城投手も、南海ホークスに移籍してからリリーフエースとして活躍。1979年、1980年と2年連続で最優秀救援投手に輝いており、成功したトレードの見本例のようになっている。

さて、福士投手も金城投手に負けず、先発投手として2度の15勝を記録するなど、1979年、1980年の2年連続の日本一にも貢献。赤ヘル軍団の一翼を担った。

舞い上がる白煙・佐々岡真司投手

佐々岡投手は、島根県の浜田商高からNTT中国を経て、1989年のドラフト1位で広島カープに入団。アマチュア時代からスライダーのキレには定評があり、その前評判通り、ルーキーイヤーから13勝11敗17セーブの好成績を残した。

2007年の引退試合では、当時横浜ベイスターズに所属していた村田修一選手にホームランを打たれている。ちなみに村田選手は、タイガースの矢野捕手の引退試合でも、藤川球児投手からホームランを打っており、球場を2度にわたってドン引きさせている。

先に紹介した前田健太投手の前に、長らく背番号18番を背負っていたのが、佐々岡真司投手だった。見た目の派手さはなかったが、18年に及ぶ現役生活中、常にエースナンバーを背負い続けた職人のような投手だった。