2009年、3連覇の立役者となった亀井善行
2009年、読売ジャイアンツは3連覇を成し遂げた。序盤から貯金を積み重ね独走状態に入ると、そのまま8月以降も怒涛の勢いで勝ち星を重ね、最終的には2位の中日に12ゲーム差をつける大差での優勝をはたす。
そして、その優勝の立役者となったのが亀井善行選手だろう(当時の登録名は『亀井義行』)。2004年のドラフトで中央大学から入団した選手で、2008年には96試合に出場するなど、徐々にブレイクの兆しを見せてはいたのだが、あれほどまでの活躍を見せてくれるなど、誰が想像しただろうか。
若手時代から期待された存在
亀井選手は2004年のドラフト4位で中央大学から入団した。当時から走攻守のレベルが非常に高く(中央大学が所属していた東都大学野球リーグにかけて)、「東都のイチロー」という異名がついていたほどだ。その能力はプロ入り後もいかんなく発揮され、1年目から2軍で.320 10本塁打を記録すると、シーズン終盤には1軍に昇格。初安打と初打点も記録する。
そして翌2006年シーズンは、2003年以来に復帰した原監督から高く評価され、開幕スタメンを勝ち取ると、6月にはプロ初本塁打も記録。65試合に出場して打率は.205ほどだったが、確実に成長の跡を見せつつあった。
野球選手としての立場が危うくなった2007年
飛躍が望まれた2007年シーズンだったが、この年は大失態を犯してしまう。7月の阪神戦、2死満塁という大チャンスで代打として登場したのだが、なんと1球もスイングすることなくそのまま見逃し三振に倒れてしまうのだ。これには監督やファンからも批判の声が上がり、その数日後に2軍落ち。そしてそのまま1軍に呼び戻されることはなかった。
結局前年から飛躍するどころか、20試合と大きく出場試合数を落としてしまい、打率も.158と低迷。さらにオフシーズンの秋季キャンプ(若手選手が中心で行われるキャンプ)のメンバーにも選ばれることがなく、3年目ながら首の寒いオフとなってしまう。その後、遅れてキャンプへの参加を許可されたが、この時の心境は計り知れないものがあったことだろう。
存在感を放った2008年
背水の陣で挑んだ2008年シーズン。この年は開幕から谷良知さんが不調に陥ってしまったこともあり、すぐに亀井選手の出番がやってくる。4月3日の中日戦、相手投手はエースの川上憲伸さんだったのだが、2番センターでスタメン出場する。1‐5と劣勢の中迎えた7回裏だった。1番の高橋由伸さんのスリーラン直後に、亀井選手も本塁打!見事に2者連続の本塁打を記録する。これで4点を加えて同点とすると、さらに3番の小笠原道大さんも続き、3者連続の本塁打!これで6?5、見事な逆転勝利を収めるのだ。
さらに4月の中盤以降は、同年にブレイクした坂本勇人選手と1・2番コンビを組むことも多くなり、存在感を放つ。4月30日の広島戦では初の1試合2本塁打も記録。しかし5月終盤に足の捻挫で戦列を離れると、入れ替わりで復帰した谷選手がベテランらしい安定した活躍を見せていたため、スタメンの機会も徐々に減っていってしまう。それでもチームは優勝し、07年からの2連覇を達成すると、亀井選手はクライマックスシリーズ、日本シリーズでも良い働きを見せ、前年度の雪辱を見事に果たすのだ。
2009年WBCのメンバーに選出!?
こうして巨人ファンの方たちに自身の活躍を印象付けた亀井選手だが、今度は全プロ野球ファンを驚かせることになる。なんと2009年のシーズン開幕前に行われたWBCのメンバーに選ばれるのだ。2006年のWBCで世界一の称号を手にしていた日本代表チーム。2連覇は彼らに与えられた使命だったわけなのだが、そのメンバーに明らかに1人、実績の乏しい亀井選手が選ばれ、多くのファンは困惑した。
この時の日本代表の指揮を執っていたのは原辰徳監督だったため、巨人の選手たちが贔屓されたのではないかと見方をする人たちもいたが、実は亀井選手を推薦したのは、当時中日ドラゴンズの一軍野手総合コーチ・現阪神タイガースヘッドコーチを務める高代延博コーチだ。高代コーチは亀井選手の守備力を大きく評価しており、まだブレイクする前の2006年、雑誌の企画で行われた「日本で最も守備が上手い外野手は誰だ!?」というアンケートでは、たった1人だけ亀井選手に投票していた。ちなみに他にノミネートされていた選手としては新庄剛さんや赤星憲広さん、福留孝介選手などなど、そうそうたるメンバー。当時の亀井選手はまだ1軍でも20試合ほどしか出場経験のなかった選手だったが、それでも票を入れたくなるほどの光る守備力を持っていたということだろう(もしかしたら今後への期待も込めての投票だったかもしれないが)。
自分の仕事をしっかり果たしたWBC
こうしてWBC日本代表メンバーに選ばれた亀井選手だが、本選では外野陣のバックアップとして3試合に出場。特に第2ラウンドの韓国戦では、足を痛めてしまった村田修一選手の代走と出場すると、すかさず盗塁を決め、チャンスを広げる。さらに続いて回ってきたWBC初打席ではライト前ヒットを記録。第2打席でも送りバントを決め、大舞台でも自分の仕事をきっちりとこなす姿を見せた。
結局このWBCでは、決勝戦ラウンドの韓国戦で延長10回にイチロー選手がセンター前に勝ち越しタイムリーを放つという劇的な流れで勝利し、2連覇を達成した。亀井選手の活躍は上記のものくらいだったが、この経験は彼にとっても非常に大きなものだったのだろう。そして2009年シーズンの開幕を迎える。
王貞治に並んだ2009年シーズン
2009年シーズン、やはり亀井選手が過ごしたシーズンの中で最も印象深い1年だろう。開幕当初こそ谷良知や鈴木尚広さんとの併用が続くが、4月25日の中日戦で岩瀬仁紀選手から逆転サヨナラスリーランを放つ活躍を見せると、ここからライトのレギュラーに定着する。5月の終わりごろからは小笠原道大さん、アレックス・ラミレスの後ろを打つ5番として起用されることが多くなり、打線には欠かせない存在となった。
6月ごろは不振の期間もあったが、夏場以降の打撃には素晴らしかった。特に8月は、4日の広島戦では、2点ビハインドの9回に永川勝浩さんから同点ツーランを放つと、さらに11回の横山竜士さんからはサヨナラツーランを放ち、ほぼ1人で試合を決める活躍を見せる。さらに8日のヤクルト戦でも押本健彦さんからサヨナラ本塁打を放ち、この月2本目、シーズンでは3本目のサヨナラ本塁打を放った。1シーズンに3本のサヨナラ本塁打というのは、王貞治さんに並ぶ球団記録だ。
大ブレイクをはたし日本一にも貢献
結局134試合に出場し、初の規定打席に到達。打率.290 25本塁打 71打点というのは、もちろん自己最高の記録になった。WBCの選出に疑問を抱いていた野球ファンの方も、この活躍を見て大いに納得したことだろう。そして、チームとしても07年・08年から続き、セリーグ3連覇を達成。日本シリーズでは4勝2敗で日本ハムを下し、見事に日本一に輝いた。
特に亀井選手の活躍が印象的だったのは第5戦だ。1点ビハインドの9回裏に先頭として打席に入ると、相手守護神の武田久選手の初球をいきなりたたき、同点本塁打を放つのだ。そして阿部慎之助選手のサヨナラ本塁打を放ち、劇的な勝利を収めた。シーズンで見せた勝負強さが、日本シリーズでも発揮されたシーンだった。
勝負強さをいかして復活なるか
このように一躍ブレイクをはたした亀井選手だが、近年は苦しいシーズンが続いている。2010年は極度の不振に陥ってしまい、打率はたった.185。出場試合数も71試合と半減。それ以降もなかなか2割5分を超える打率が残せず、いつの間にか長野選手らにレギュラーを奪われてしまうほどだ。ポジションも内外野を転々として、時には慣れないポジションでのミスを厳しく批判されたこともあった。
それでも2015年には2009年以来の100安打を記録したりなど、復調の兆しは見せている。不振だったシーズンでも、何本か決勝打やサヨナラ打を放つなど、その勝負強さは健在だ。2017年シーズンはもう35歳になるが、再起のシーズンとなるだろうか。注目していこう。