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【耐雪梅花麗】今だからこそ黒田博樹の球歴を振り返る

2017 8/17 16:20cut
野球ボール,ⒸShutterstock.com
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西浦多克拓選手とライバルだった上宮高校時代?専修大学時代

黒田博樹選手はもとプロ野球選手でもあり高橋ユニオンズでもプレーした黒田一博氏の次男として生まれ中学生の頃から父一博さんの設立したボーイズリーグ「オール住之江」でプレーしていた。その後、大阪の名門校である上宮高校に進学し甲子園を目指す。しかし、エースになることはできず三番手投手として引退する。当時のチームメートには西浦克拓選手(元日本ハム)がおり二番手の座を争っている。

上宮高校時代は無名の投手だった黒田博樹選手は専修大学へ進学するが当初は地元である関西の甲南大学へ進学を考えていた。これは父である一博さんの後押しがありセレクションを受けてみたら合格したのだ。当時の専修大学は東都大学野球連盟の二部ではあったが31回の優勝を誇る名門校だった。

専修大学は黒田博樹選手が4年春のときに一部リーグへ昇格し春秋のリーグ戦で6勝を挙げる活躍を見せる。また、神宮球場のスピードガン表示で150キロを計測しプロからも注目を浴びる存在となったのだ。当時、東都のライバル校では青山学院大学に井口資仁選手(ロッテ)、東洋大学に今岡誠選手(元阪神)が所属しておりその中での6勝をマークしたのだ。

1996年のドラフトにおいて逆指名2位で広島へ入団する。この年のドラフト1位は東都でしのぎを削ったライバルである青山学院大学の澤崎俊和選手だった。東都大学でのライバルがプロでは仲間になったのだ。

ドラフト2位からエースへ上り詰めた第一次広島時代

広島を逆指名しプロ入りを果たした黒田博樹選手は一年目からローテーションを守る活躍を見せ規定投球回に到達し6勝をマークする。初登板となった巨人戦では初登板、初先発、初完投、初勝利を記録している。この試合で黒田博樹選手は初三振を松井秀喜選手(元巨人)から奪っている。生涯に渡ってライバルとして黒田博樹選手が意識し続けた男との初勝負は黒田博樹選手に軍配が上がっていたのだ。

その後、徐々に才能が開花し本格的な先発投手として認められるようになったのは4年目となる2000年のことだ。2000年の黒田博樹選手はリーグ最多となる7完投を上げるなどルーキーイヤー以来の規定投球回に到達する。二桁勝利には惜しくも届かない9勝で終わるが将来のエース候補として期待がかけられる。2001年には12勝を挙げ初の二桁勝利にオールスター出場を果たした。

2001年は日本野球界にとっても大きな節目でイチロー選手が海を渡り新人王、MVPを獲得。メジャーリーグが日常になった年でもあった。このイチロー選手の挑戦があり2003年の松井秀喜選手へと日本人打者の系譜は続いていくのだ。

黒田博樹選手は2002年以降も広島でエースとして君臨し2006年にFA権を取得する。この時点で黒田博樹選手は「国内なら広島」と語り移籍するとしてもメジャーリーグのみとファンに向けても宣言した。黒田博樹選手はこのオフ悩み抜いた結果、2007年も広島でプレーすることを選んだのだ。そして、翌2007年のオフにメジャーリーグ移籍を決断しFA宣言を行う。

FA宣言をした黒田博樹選手は3年契約でロサンゼルス・ドジャースと契約し赤から青のユニフォームで戦うことになったのだ。この時の契約は3年3530万ドルとなっている。

報復投球で仲間に入ったドジャース時代

ドジャースへ入団した黒田博樹選手はチーム4試合目となるパドレス戦ではメジャー初先発を果たす。この試合で黒田博樹選手は7回1失点の好投で初勝利を手にし日米で初登板、初先発、初勝利を飾ったのだ。1年目は初戦のような好投と序盤で崩れる投球が交互に見られなかなか安定した投球は披露できなかった。しかし、31試合に登板し181回を投げ9勝をマークした黒田博樹選手には数多くの賞賛の声が送られた。

黒田博樹選手が活躍したこの年にデビューした1人の若者がいる。クレイトン・カーショー選手だ。いまや年俸30億円を超える全米ナンバーワン投手も黒田博樹選手と同じ年のデビューだったのだ。それ以来、黒田博樹選手とクレイトン・カーショー選手は交流を深めている。

黒田博樹選手の1年目におけるハイライトはレギュラーシーズンではなくポストシーズンにある。フィリーズとのリーグチャンピオンシップは敵地フィラデルフィアで2戦目までドジャースは連敗していた。また、その試合でチームメートであり主砲のマニー・ラミレスが死球を受けていながら報復を誰も行わなかった中で第3戦を本拠地ドジャースタジアムで迎える。その第3戦に先発した黒田博樹選手はフィリーズのシェーン・ビクトリーノ選手の頭部付近へ報復と見られる球を投じたのだ。死球にはならずその打席はファーストゴロに終わる。そのファーストゴロの際にベースカバーへ入った黒田博樹選手とシェーン・ビクトリーノ選手が言い合いになり一触即発の雰囲気となった。

日本では死球、危険球を投じたら帽子を脱いで謝るのが良しとされているがメジャーリーグではそうではない。やられたらやり返すのだ。その文化の違いがありながらも黒田博樹選手は”やり返す”ことを選んだことがメディアに大きく取り上げられ翌日の新聞には”たった一球で仲間の信頼を勝ち得た”という見出しが出され黒田博樹選手が本当の意味で仲間になったことを強調していた。
それ以降も黒田博樹選手は毎年ローテーションを守り2011年までドジャースで4年間プレーする。2011年にFAとなりヤンキースへと移籍することになった。

耐雪梅花麗を浸透させたヤンキース時代

2012年にドジャースからヤンキースへ移籍した黒田博樹選手はスプリングトレーニングでヤンキースに合流す。

そのキャンプ中に持ち回りで選手たちの好きな言葉を披露する場があったのだ。黒田博樹選手は「耐雪梅花麗」という言葉を紹介しチームメートに受け入れられた。「耐雪梅花麗」は西郷隆盛が詠んだ詩の一部で”梅の花は雪を耐えることで綺麗な花が咲く”現代風に訳すと”成功するためには苦しいことがある”といった意味になる。ジョー・ジラルディ監督は梅の花の写真を探しパソコンのデスクトップにした保手でもある。

キャンプ中でチームから受け入れられた黒田博樹選手は期待に応え移籍一年目から黒田博樹選手は33試合に先発し自己最多となる16勝をマークする。

以降も2014年までの3年間毎年二桁勝利を挙げる活躍を見せFAとなる。

当時の黒田博樹選手はメジャー各球団が先発として欲しており1800万ドルのオファーもあったほどだ。しかし、黒田博樹選手はメジャーではなく移籍先として広島を選択する。

この選択が黒田博樹選手らしいと話題になり日本では「男気」という言葉が流行した。

男気復帰から伝説となった第二次広島時代

メジャーリーグで二桁勝利をマークした先発投手が広島に帰って来たということで2015年はオープン戦から黒田博樹選手の登板試合は大きな盛り上がりを見せた。

ビジターゲームでもメジャー帰りの黒田博樹選手の登板を見ようと広島戦は各球場で満員となる日が多くなる。しかし、黒田博樹選手、前田健太選手と両エースがそろっているにも関わらずチームは優勝争いに絡むことすらできず4位に終わってしまう。

広島ファンの多くは前田健太選手と黒田博樹選手が揃っていながら優勝できないことに悲しみを覚えていた。そして、2016年は前田健太選手が黒田博樹選手と同じくドジャースへ移籍したことで優勝は難しいと考えていたのだ。

前評判が高くない状況の中で広島は黒田博樹選手は日米通算200勝を達成し野村祐輔選手、クリス・ジョンソン選手の投手陣そして新井貴浩選手、菊池涼介選手、丸佳浩選手ら打撃陣すべてが噛み合い25年ぶりとなるセリーグ優勝を果たすのだ。

セ・リーグ優勝チームとして臨んだクライマックスシリーズもDeNAの挑戦を退け日本シリーズへ駒を進める。

クライマックスシリーズと日本シリーズのわずか1週間ほどの合間になんと黒田博樹選手は引退を発表するのだ。日本ではニュース速報が入り特集番組が組まれるなど大きな話題となる。また、アメリカでもメディアが報道するなど黒田博樹選手の偉大さを感じさせる出来事となった。

日本シリーズでは札幌ドームで行われた第3戦に登板し好投をするもチームの勝利には結びつかなかった。広島は2勝3敗で本拠地マツダスタジアムに戻り第6戦を迎える。黒田博樹選手がもう一度登板を果たすためには第6戦に勝利することが絶対条件だ。広島が第6戦に勝利すれば日本ハムの先発は大谷翔平選手が予想されておりラストゲームが最高の投手同士のマッチアップとなるはずだったのだ。

しかし、広島は第6戦で日本ハムに敗れ日本シリーズは幕を閉じる。同時に黒田博樹選手の現役もここで終りとなった。

黒田博樹選手は日米通算203勝という数字だけではなく多くのファンの記憶に残るプレーを見せてくれた。その証が永久欠番だ。 広島は日本シリーズ終了後に黒田博樹選手の背負っていた「15」を永久欠番とすることを発表したのだ。

こうして黒田博樹選手は広島の伝説となった。黒田博樹選手の勇姿を見ることのできた私達は幸せなのかもしれない。