ロカビリー投法で打者を切った18番・若生忠男
始めにご紹介するのは、若生忠男投手だ。1955年に入団し、1960年から1962年までの3シーズン、18番をつけた。
背番号が見えるほどに全身にひねりをかけ、アンダーハンドから繰り出される変化球は、“ロカビリー投法”と呼ばれ、キレのいい変化球で打者を翻弄。1967年9月17日にはノーヒットノーラン達成、1968年には通算100勝目を挙げるなど、長く主力投手として活躍した。
【通算成績】578試合/105勝107敗/防御率2.81
西武ライオンズはここ数年こそBクラスに甘んじているが、脈々と勝ちを重ねてきた伝統あるチーム。そんな西武の歴代エースはどんな選手だったのだろうか。本記事では埼玉西武ライオンズでエースナンバーを背負ってきた名選手達を紹介する。
始めにご紹介するのは、若生忠男投手だ。1955年に入団し、1960年から1962年までの3シーズン、18番をつけた。
背番号が見えるほどに全身にひねりをかけ、アンダーハンドから繰り出される変化球は、“ロカビリー投法”と呼ばれ、キレのいい変化球で打者を翻弄。1967年9月17日にはノーヒットノーラン達成、1968年には通算100勝目を挙げるなど、長く主力投手として活躍した。
【通算成績】578試合/105勝107敗/防御率2.81
次にご紹介するのは、河原明投手だ。1968年、ドラフト1位で入団し、その年から74年まで7年間、18番を背負った。
本来はオーバースローであったのを、入団後にサイドスローに修正。プロ1年目は未勝利に終わったにもかかわらず、2年目には12勝を記録する成長を見せ、4年連続4試合以上登板するなど活躍した。
その後も、名手稲尾和久が衰え引退していくライオンズにあって、大車輪でチームを支えた選手だ。
【通算成績】280試合/41勝76敗1セーブ/防御率4.25
続いてご紹介するのは、郭泰源投手。台湾人選手として台湾にプロ野球がない時代から日本野球界で活躍し、歴代外国人投手最多の通算117勝を上げた投手だ。1987年から97年の実に11年間もライオンズの18番として右腕を振るった。
スリークォーターのフォームから繰り出す最速158km/hの速球を武器とし、付いた異名は“オリエンタル・エクスプレス”。制球力も抜群で、あの落合博満をして「野茂英雄よりすごい」「どうやっても打てん」と言わしめたほどだった。
【通算成績】272試/117勝68敗18セーブ/防御率3.16
西武ライオンズの18番といえば、未だに松坂大輔投手を思い出す方も多いのではないだろうか。1999年にドラフト1位で鳴り物入りで入団し、その後2007年に米大リーグへ移籍するまでの8年間18番として活躍し、年数以上の鮮烈な印象と成績を残した投手だ。
入団後初のロッテマリーンズ戦で黒木知宏と投げ合い惜敗を喫し「リベンジします」と宣言。プロ初完封でリベンジを成し遂げた出来事は印象的だ。強気な姿勢でファンを魅了し、レギュラーシーズンのみならず、数々の国際大会でも日本のエースとして白星を重ねた。
2015年には日本球界に復帰。更なる活躍が期待される投手だ。
最後にご紹介するのは、涌井秀章投手だ。2004年にドラ1指名を受け入団。松坂大輔の移籍後不在であった18番を2009年に引き継ぎ、2014年まで5年間、ライオンズの18番として活躍した。
彼の女房役として切り離せないのが、炭谷銀仁朗捕手。2006年、涌井投手と炭谷捕手の「10代バッテリー」が勝利を上げたことは、球界のニュースとなった。2009年には最優秀バッテリー賞も受賞している。
チームメイトから「不思議ちゃん」と称され、「子どもっぽい」と言われることもある涌井投手だが、陰の研鑽を怠らない努力の人。走り込みの結果太さを増した脚で、座った瞬間にジーンズの膝が破れた話は有名だ。
【通算成績】326試合/108勝94敗37セーブ/防御率3.44
それぞれに個性的でそれぞれに違った強さを持った名投手達に受け継がれてきた西武ライオンズの18番だが、2016シーズン、ドラフト1位ルーキーの多和田 真三郎投手へと受け継がれた。 彼がどのような活躍を今後見せてくれるのか、成長に期待したい。