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「サッシー旋風」に沸いた1976年ドラフトの答え合わせ、一番出世は?

2022 9/29 06:00SPAIA編集部
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東海大相模・原辰徳は大学進学のため指名回避

夏の甲子園決勝で桜美林(西東京)がPL学園(大阪)との「東西対決」を制して優勝した1976年。東海大相模の原辰徳が大フィーバーを巻き起こしたが、東海大への進学を表明していたため、秋のドラフト会議では全球団が指名を回避した。

当時は予備抽選で指名順を決定し、奇数順位は予備抽選の1番から12番へ、逆に偶数順位は12番から指名していく変則ウェーバー方式。現在のように重複すれば抽選というルールではないため、予備抽選による運、不運が大きかった。予備抽選の結果はヤクルト―中日―大洋―巨人―阪急―近鉄―クラウンライター―ロッテ―日本ハム―南海―広島―阪神に決まった。

1976年ドラフト1巡目指名選手の成績


各球団1巡目指名選手のプロ入り後の成績を振り返る。

ヤクルトは「サッシー旋風」の酒井圭一

ヤクルトは長崎・海星高の酒井圭一を1位指名した。同年夏の甲子園でベスト4進出し、5試合で40奪三振をマークして「サッシー旋風」を巻き起こした右腕。プロ入り後は1980年に28試合登板で4勝4セーブを挙げるなど主に中継ぎ、リリーフとして活躍したが、1990年に引退するまで通算6勝12敗4セーブにとどまった。

中日は堅田高の左腕・都裕次郎を指名。滋賀県の高校生として初のドラフト1位選手となり、3年目の1979年に一軍デビューして2勝。1982年には16勝5敗で最高勝率に輝き、リーグ優勝に貢献した。1989年に引退するまで243試合登板で48勝36敗10セーブの成績を残している。

大洋は大阪商業大の斉藤明雄を指名した。関西六大学リーグ通算30勝をマークした即戦力右腕は、1年目に8勝を挙げて新人王。1982年には防御率2.07でタイトルを獲得し、1983年、1986年には最優秀救援投手に輝くなど史上3人目の100勝100セーブとなる通算128勝125敗133セーブを記録した。1993年に引退後は横浜やロッテでコーチを務めた。

巨人は新日鉄広畑の藤城和明を1位指名。1979年に27試合登板で4勝を挙げ、1982年の開幕直後に笹本信二との交換トレードで阪急へ移籍した。1986年にはロッテのテストを受けて移籍したものの一軍登板はなく、同年限りで引退。通算101試合登板で14勝19敗だった。

阪急は佐藤義則、近鉄は久保康生、クラウンは立花義家

阪急は日本大の佐藤義則を指名した。1985年に21勝で最多勝、1986年には最優秀防御率(2.83)のタイトルを獲得するなど、44歳だった1998年までプレーして通算165勝137敗48セーブをマーク。引退後はオリックス、阪神、日本ハム、楽天、ソフトバンクなどでコーチを歴任し、ダルビッシュ有や田中将大ら多くの選手を育て上げた。

近鉄は柳川商の右腕・久保康生を指名。1982年に12勝を挙げ、1988年に中谷忠己との交換トレードで阪神に移籍し、1996年に金銭トレードで近鉄に復帰した。通算550試合登板で71勝62敗30セーブ。引退後は近鉄、阪神、韓国・斗山、ソフトバンクでコーチを務めた。

球団名が太平洋クラブから変わったばかりのクラウンライターは、近鉄に指名された久保康生のチームメイト、柳川商の立花義家を指名した。1979年から西武となって本拠地が所沢に移転されると、1980年には打率.301、18本塁打、60打点をマーク。1982年から2年連続日本一にも貢献した。1992年は金銭トレードで移籍した阪神、1993年は台湾の俊国でプレー。NPB通算801安打、51本塁打、318打点の成績を残した。

ロッテは東都リーグ通算18勝をマークした駒澤大の右腕・森繁和を1位指名したが、入団を拒否された。森は住友金属に入社し、1978年ドラフトで西武、中日、ヤクルト、日本ハムの4球団競合の末、西武入りした。

広島・山崎隆造はスイッチ転向して1404安打

日本ハムは同年春のセンバツで優勝した崇徳高の右腕・黒田真二を指名。夏の甲子園3回戦で敗れた海星・酒井圭一(ヤクルト1位)とともに高校生の目玉とされたが、相思相愛の広島から指名されず入団を拒否した。その後、日本鋼管福山からリッカーを経て1982年にドラフト外でヤクルト入団。通算7勝を挙げた。

南海は夏の甲子園に出場した秋田商の外野手・武藤一邦を指名した。しかし、武藤は入団を拒否して法政大に進学し、1980年ドラフト2位でロッテ入りした。

広島はセンバツ優勝した崇徳高の山崎隆造を指名。プロ入り後にスイッチヒッターに転向し、1984年から6年連続フル出場した。1993年に引退するまで1531試合に出場して1404安打、88本塁打、477打点、打率.284の成績を残した。

12番目の指名となった阪神は、首都大学リーグで通算29勝を挙げた帝京大・益山性旭が1位。大阪福島商時代に大洋の4位指名を拒否し、大学を経て地元球団に入団した左腕は、通算11勝27敗1セーブの成績を残した。

2位以下では、三菱重工三原・角三男が巨人3位、銚子商・宇野勝が中日3位、早稲田大・松本匡史が巨人5位、戸畑商・山本和範が近鉄5位でプロ入り。1位指名だけで入団拒否が3人いたが、結果的には100勝以上挙げた投手が2人、1000安打以上打った野手が1人と実績を残した選手の多いドラフトだった。

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