「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

福岡ソフトバンクホークスを引っ張る選手!柳田悠岐の功績

2016 12/2 01:42
ピッチャー,ⒸShutterstock.com
このエントリーをはてなブックマークに追加

Photo by Evgenii Matrosov/Shutterstock.com

今やプロ野球パリーグを代表する常勝チームである福岡ソフトバンクホークス。そのホークスにおいて打線の中心としてチームを引っ張るのが柳田悠岐選手だ。柳田選手はこれまでにどのような功績を残してきたのだろうか?

柳田悠岐のおいたち

柳田選手は1988年生まれで、野球を始めたのは小学生の頃だった。意外なことに、野球を始める前は実はサッカーをしていたそうだ。広島県出身の柳田選手だが、住んでいた地域がサッカーのサンフレッチェ広島のホームスタジアムから近いということでサッカーに取り組む子どもが多く、当初は柳田選手も御多分に洩れずサッカーチームに入っていた。しかし小学3年生の時に友人に誘われて野球チームに入団すると、野球に熱中していく。
その後、中学校では軟式野球のクラブチームに所属、高校、大学を経て2010年のドラフトで2位指名を受けて福岡ソフトバンクホークスに入団した。

高校時代は普通の選手だった?

柳田選手は全国でも屈指の名門、過去には全国制覇の経験もある広島商業高校に進学する。しかし、中学時代にこれといった成績を残していない柳田選手は、入部当初は周囲の上手い選手たちの中に埋もれてしまっていた。同学年の田中将大や前田健太、坂本勇人らが早い段階から甲子園で活躍していたのに対して、柳田は高校2年の夏までベンチにすら入れずスタンドで応援していた。
そんな柳田がレギュラーを掴むきっかけとなったのが、バッティングフォームの改革だった。当時近鉄でホームランを量産していた中村紀洋選手の1本足打法を参考に自身のフォームを修正したところ、打球の飛距離が伸びるなど打撃成績が良くなり、2年の秋に念願のレギュラーに抜擢されたということだ。レギュラーにはなれたものの、3年の夏は県予選準決勝で敗れ、甲子園には1度も出場することなく高校野球を引退することになった。

覚醒した大学時代

高校野球を引退した後、柳田選手は自分の実力の限界から野球を辞めようと考えていた。しかし、柳田選手の才能を見込んでいた広島商業の迫田監督から、大学でも野球を続けることを後押しされ、続けることを決意。関東の強豪大学のセレクションには落ちてしまうが、地元の広島経済大学に進学する。高校時代は体の線が細かったことから大学では肉体改造に着手。週5日の筋力トレーニングに加え、栄養も意識した結果高校3年時に68kgだった体重が大学4年時には89kgと、20kg以上の増量に成功する。
肉体改造の結果が功を奏して、大学では首位打者、ベストナインを受賞しただけでなく、打率が4割を超えることも5回あり、その才能を開花させることになった。

プロ入り後も順調に

プロ入り後は、1年目から1軍の試合に出場。結果こそ残せず、1年目は2軍で過ごす時間が長くなるが、その間にもプエルトリコのウィンターリーグに参加するなどの取り組みを見せる。2年目以降は徐々に1軍での出場が多くなり、プロ初ホームランを果たすなど打撃面での活躍が見られるようなる。3年目の2013年に初の開幕1軍入りを果たすと、翌2014年には全試合に先発出場を果たし、チームに欠かせない存在となる。
2014年、2015年は主力としてチームの日本一に貢献するなど、今ではホークスの強さの象徴の1人となっている。

実力は本物!トリプルスリー

2015年には打率.363、ホームラン34本、盗塁30という成績を残し、球団では初となるトリプルスリーを達成する。トリプルスリーは流行語大賞にも選ばれ、柳田選手の名前は多くの人に知られることとなった。なお、この年は首位打者のタイトルも獲得しており、トリプルスリーと首位打者を同時に獲得するという偉業を成し遂げている。 もともと、大学時代から打撃においては好成績を残しており、プロ入り後もフルスイングを売りに、打率が3割を超えることも多くあった。
打撃が売りの選手であるということは間違いないのだが、実は足も速いのだ。盗塁30という記録からもわかるが、足の速さを手に入れたのは前述の大学時代の肉体改造の結果だった。肉体改造によって打撃成績が向上したのに加えて50m走の記録も6秒2から5秒9に伸びており、強靭な肉体を手に入れたことで、盗塁30という記録を残すことができ、トリプルスリーを達成することができたのだ。

まとめ

ここまで柳田悠岐選手の功績について紹介してきた。まだ20代と若く、これからの活躍と共に、日本球界全体を引っ張っていくような選手になることも期待されている。