『新井貴浩』という人物
新井貴浩選手は1977年1月30日に広島で生まれる。メインポジションは内野手で主にファーストやサードを任されるほか、過去には外野手としてライトを守った経験も。野球スタイルとしては、本塁打王や打点王を取った経験もあるスラッガー系の選手だ。第7代目の日本プロ野球選手会会長にも任命されるなど、その人柄の良さも特徴的だ。
弟である新井良太選手もプロ野球の世界に進み、現在は阪神タイガースに所属。一時は兄弟で同じ球団に所属し、チームの勝利に貢献した。
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広島東洋カープや阪神タイガースで活躍した新井貴浩選手。チーム内はもちろん、他球団の選手やファンからも愛される魅力あふれる選手だ。今回は新井選手の功績を振り返りながら、彼の野球人生を紹介していきたいと思う。
新井貴浩選手は1977年1月30日に広島で生まれる。メインポジションは内野手で主にファーストやサードを任されるほか、過去には外野手としてライトを守った経験も。野球スタイルとしては、本塁打王や打点王を取った経験もあるスラッガー系の選手だ。第7代目の日本プロ野球選手会会長にも任命されるなど、その人柄の良さも特徴的だ。
弟である新井良太選手もプロ野球の世界に進み、現在は阪神タイガースに所属。一時は兄弟で同じ球団に所属し、チームの勝利に貢献した。
小学校から高校時代までは地元の広島市で育つ。
高校卒業後は東京の駒澤大学へ進学。日米大学野球では打率5割、秋季リーグでは打点王とベストナインを取るなどの活躍を見せた。
しかし、新井選手はそれ以外に目立った成績を残しておらずドラフトにかかる可能性は極めて低かった。
そこで新井選手はある策に出る。それは大学の先輩であり、現役のカープ選手でもある野村謙二郎さんの自宅を訪れ、目の前でスイングを行い自身をアピールすること。このエピソードをきっかけに野村さんからの推薦を獲得し、広島東洋カープに指名されたのだ。
2007年にFA権を獲得した新井選手は、迷いながらもその権利を行使。「自分を厳しい環境に置き、挑戦したい気持ちが出てきた」と語り、阪神タイガースへの移籍が決定した。当初はFA権を行使せずカープに残留する思いも吐露していたため、今回の移籍でカープファンとの間に大きな溝を作ってしまった結果に。
心に残る古巣への愛着で胸を痛めながらも、阪神タイガースで新たな挑戦への道を進んだ新井選手。1,000本安打の達成や、ゴールデングラブを獲得するなどの活躍を見せ、タイガースの勝利に貢献した。
新井選手は2014年シーズンに加入したゴメス選手とのポジション争いにより、代打に回ることも多くなる。出場機会の減少や故障なども相まって、シーズンオフには大幅減俸通告。また、翌年以降も代打中心の起用になることを見越し、新たな世界を模索するため自由契約を申し入れる。
そんな中で手を上げたのが古巣である広島東洋カープだった。当時のカープの補強ポイントは『右打ちの長距離打者』。まさに新井選手が適任だったのだ。
一度は決裂したカープとの絆。それでも新井選手は与えられた役割を黙々とこなし、その姿からカープファンも次第に彼を認めはじめる。
そして迎えた2016年シーズン。新井選手も重要な戦力として活躍し、見事リーグ優勝の栄冠を手にするのだった。
もちろん新井選手が再びカープに受け入れられたのは実績からだけではない。ある日フリーバッティング中の打撃が原因で、取材スタッフが負傷するという出来事が起きた。試合後に聞いた新井選手は、社名と名前を調べ、負傷した人物の元へ直接謝罪に行ったという。その律儀で実直な人柄が、一度は裏切ったファンの信頼を再び得ることに繋がったのではないだろうか。
広島東洋カープに復帰し、見事優勝を果たした新井選手。愛するカープで達成した悲願は何よりも嬉しい出来事だったのではないだろうか。人は迷い、遠回りをしながら自分だけの宝物を見つけるもの。悩み抜いた先でつかみ取った栄光を噛み締め、1日でも長く晴れやかな表情でプレーする姿をファンに見せてほしいものだ。