今年復活をはたした守護神 平野佳寿
チームの現クローザーといえば、平野佳寿だ。14年には40セーブで当時のパリーグ新記録を樹立。15年シーズンは不調だったが、今年は復活をはたし31セーブの活躍を見せている。
入団当初は抜群のスタミナを誇り、先発として期待されていた。ルーキーだった06年には10完投(うち4完封)を記録している。ただ勝ち星には恵まれず7勝11敗と負け越し。翌07年も8勝13敗で2年連続の2桁敗戦を喫すると、08年は右ひじの故障で1試合も登板できず。09年に復活したものの3勝12敗と大きく負け越し、このままでは選手としての立場すら危ういという状況だった。
転機が訪れたのは2010年。クローザーを務めていた加藤大輔が絶不調に陥ると、セットアッパーの岸護がクローザーに、そして空いたところに平野が回ったところ、63試合で32ホールド防御率1.67という素晴らしい成績を残したのだ。翌年も72試合に登板し43ホールド。中継ぎで見事に花を咲かせた。13年からはクローザーに定着し、前述通りの活躍を見せている。
クローザーながら最優秀防御率!? 赤堀元之
赤堀元之は、近鉄バファローズで92?97年の6シーズンもの間クローザーを務めていた選手だ。92~94年まで3年連続最優秀救援投手という素晴らしい成績。何よりもすごいのは、おそらくプロ野球史上最初で最後になるであろう、最優秀救援投手と最優秀防御率を同時に獲得したことだ。
本格的にクローザーを務めることとなった92年、この年は50試合に投げて22セーブを記録し、セーブ王を獲得た。しかしその一方で投球回もかなりの数を数え、10月の時点 で115イニングを投げていたのだ。
当時の規定投球回は130イニング、そしてこの残り15イニングをクリアするため、なんとシーズン終盤にして先発登板に踏み切る。そして赤堀はこの試合を見事に完封勝利してしまうのだ(しかもこれがプロ初先発)。結局翌週にもう1試合登板し、6イニングを投げ無事規定投球回数クリア。防御率1.80で最優秀防御率を獲得した。
成績だけで誰だかわかる!? 平井正史
平井正史は、95年のオリックスブルーウェーブでクローザーを務めていた選手だ。コアなプロ野球ファンの方なら、15勝5敗27セーブという成績を見ただけでピンとくる方も多いだろう。
高校時代から剛速球投手としてならし、ドラフト1位でオリックスへ入団。そして2年目からクローザーに抜擢され、弱冠20歳ながらこれほどの成績を残した。惜しくも最多勝とはならなかったが、最優秀救援投手と最優秀勝率の2冠を達成する。
ただこの年の無理がたたったのか、翌年以降は満足な活躍ができず、99年?02年まで4シーズンにわたって1軍未勝利だった時期も。しかし03年に中日へと移籍すると、先発に中継ぎに大活躍。見事12勝を挙げてカムバック賞を受賞した。
第1回WBCクローザーも務めた 大塚晶文
大塚昭文は、06年の第1回WBCで胴上げ投手にもなった選手だ。キューバを相手に迎えた決勝戦、最後は得意の縦に落ちるスライダーで相手打者を空振り三振に取ったあのシーン、印象に残っている方も多いだろう。
97年に近鉄バファローズへ入団すると、98年からは先発に転向した赤堀に代わりクローザーを務め、いきなり35セーブで最優秀救援投手のタイトルを獲得する。99年は故障もあり6セーブに終わるものの、それ以外の年は安定して20セーブ以上を記録。01年にはリーグ優勝にも大きく貢献した。03年に中日へ移籍した後、04年からはメジャーへと挑戦。パドレス→レンジャーズと渡り歩き、4年間で236試合39セーブ74ホールドの成績を残している。
日米7球団を渡り歩いた苦労人 吉井理人
最後に紹介するのは吉井理人、近鉄→ヤクルト→メッツ→ロッキーズ→エクスポズ→オリックス→ロッテと日米7球団を渡り歩いた苦労人だ。クローザーを務めていたのは近鉄時代5年目となる88年のシーズンから。それまでほとんど実績はなかったが、仰木彬監督に見出されてクローザーに抜擢されると、これがピタッとはまり10勝2敗24セーブという見事な成績を残す。
翌89年には47試合20セーブを上げ、リーグ優勝に大きく貢献した。日本シリーズでも7試合中5試合に登板するフル回転だった。翌年以降は赤堀にクローザーを譲り、自身は先発へ転向。近鉄時代はそれほど勝てなかったが、ヤクルト時代には3年連続2桁勝利を挙げるなど、エース級の活躍を見せた。
まとめ
90年代中盤の2人は、クローザーをしながら先発投手のタイトルを取ったりと、今では考えられないような成績を残している。それだけチームからの信頼も厚かったということなのだろう。