初打席満塁ホームラン!ケビン・ミッチェル
1995年にダイエーホークスに33歳でやってきたケビン・ミッチェルは、サンフランシスコ・ジャイアンツ時代の1989年にホームラン王にも輝いたこともあるバリバリのメジャーリーガーだった。開幕戦から4番に座るといきなり満塁ホームランを放ち現役メジャーリーガーの力を魅せてくれた。しかし、無断帰国をするなど問題児ぶりを発揮し8月に解雇となってしまう。わずか37試合の出場だったが打率.300、8本、28打点の成績と強烈なインパクトを残していった。
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リーグ3連覇を狙うも北海道日本ハムファイターズに敗れリーグ優勝はならなかった福岡ソフトバンクホークス。去年、活躍した李大浩(現マリナーズ)の穴埋めができなかったことが響いた。その福岡ソフトバンクホークスの前身球団も含めた外国人選手を振り返ってみたいと思う。
1995年にダイエーホークスに33歳でやってきたケビン・ミッチェルは、サンフランシスコ・ジャイアンツ時代の1989年にホームラン王にも輝いたこともあるバリバリのメジャーリーガーだった。開幕戦から4番に座るといきなり満塁ホームランを放ち現役メジャーリーガーの力を魅せてくれた。しかし、無断帰国をするなど問題児ぶりを発揮し8月に解雇となってしまう。わずか37試合の出場だったが打率.300、8本、28打点の成績と強烈なインパクトを残していった。
1960年に南海ホークスへやってきたジョー・スタンカは当時のエースであった杉浦忠と2枚看板として活躍する。来日1年目から38試合に登板し17勝を挙げ2年目も39試合に登板し15勝しリーグ優勝に大きく貢献する。1964年には26勝7敗でシーズンMVPを獲得しチームを優勝に導く。そして、日本シリーズでも3完封とMVPに輝き南海ホークスの日本一に大きく貢献した。1965年まで南海ホークスでプレーし94勝をマークしている。南海ホークスを退団後は大洋ホエールズで1年間のみプレーし6勝を挙げ日本通算100勝を達成した。
1967年35歳で南海ホークスへやってきたドン・ブレイザーは、長距離砲ではなく助っ人外国人選手としては珍しい小兵の守備型選手だった。南海ホークスに入団した当時は全盛期を過ぎていたが、守備の質が高く見るものをうならせるプレーを数多く魅せてくれた。1967年、1968年と2年連続でベストナインにも選ばれるなどの活躍をし1969年に引退する。その後ヘッドコーチ、監督を務めノムさんこと野村克也と共にID野球を日本に根づかせた1人でもある。2005年に73歳で亡くなっている。
1988年南海ホークス最終年にやってきたトニー・バナザードは助っ人外国人選手にしては珍しく大砲タイプではなく俊足巧打のスイッチヒッターだった。1988年に打率.315、20本、60打点と活躍するが2年目以降は数字を落としてしまう。成績以上に注目を集めたのが気性の荒さだった。審判の判定に文句を言うなど1988年の夏場に2ヶ月で3度の退場処分を受けるなどお騒がせ男だった。アメリカに帰国後は再びメジャーリーグで試合に出場するが目立った成績は残していない。
2011年に広島東洋カープへやってきたデニス・サファテは埼玉西武ライオンズを経て2014年に福岡ソフトバンクホークスに入団する。
初年度からクローザーを任され64試合に登板。7勝1敗37S7H、防御率1.05という圧倒的な数字を残しチームの優勝に大きく貢献した。福岡ソフトバンクホークス2年目となった2015年は41Sで初のタイトルとなる最多セーブを獲得する。2016年シーズンも43Sを挙げ2年連続で最多セーブに輝いている。193センチの長身から投げ下ろすストレートはわかっていても空振りしてしまう球として相手打者に恐れられている。
福岡ソフトバンクホークス、その前身チームの外国人選手を5人紹介した。成績だけでなくお騒がせで印象に残っている選手も多くいるのが特徴だ。優勝を逃した今シーズンだが、来シーズンに向けた補強が今から楽しみだ。