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中日ドラゴンズの歴代外国人を振り返る!

2016 11/25 20:06
野球ボール,ⒸShutterstock.com
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Photo by Evgenii Matrosov/Shutterstock.com

球団史上初の4年連続Bクラスに沈んだ中日ドラゴンズだが、来シーズンに巻き返しを期待したいところ。その補強として新外国人選手も必要だと考えられる。ではこれまでの中日ドラゴンズにはどんな外国人選手が所属していたのだろうか。中日ドラゴンズは球団の歴史が長いということもあり、外国人選手の数も多い。そこで5人ピックアップして振り返ってみよう。

中日一筋16年!郭源治

1981年7月に中日ドラゴンズへ入団し、6年間は先発としてローテーションを任される。3年目から4年連続で二桁勝利をマークしチームに大きく貢献している。
転機は1987年だった。落合博満が加入した際のトレードで、抑えであった牛島和彦が移籍してしまったのだ。その代役として指名されたのが郭源治だった。郭源治はその起用に応え1987年、1988年と2年連続の最優秀救援投手に輝く。1988年の中日ドラゴンズ優勝の際の胴上げ投手にもなっている。その後は抑え、先発とチーム事情によって起用され1996年まで中日ドラゴンズに所属した。中日ドラゴンズ退団後、祖国台湾で2年現役を続け、その後引退している。

キューバの至宝オマール・リナレス

日本球界に送り込まれてきたキューバの至宝と称される名選手達は数え切れないほど存在するが、その中でもまず頭に浮かぶ代表的存在が中日ドラゴンズに在籍したオマール・リナレスだ。
1990年代に世界最強軍団としてオリンピックで2大会連続金メダルを取った際の主力メンバーだったオマール・リナレスは2002年に中日ドラゴンズへやってくる。残念ながら3年間で打率.246、11本塁打、61打点と期待されたほどの活躍はされなかったが、以後のキューバ、日本との架け橋的存在になった。現在は中日ドラゴンズにおいて巡回コーチの役割を担っている。

横浜から移籍後も大爆発!タイロン・ウッズ

2005年に横浜ベイスターズから中日ドラゴンズへ加入したアメリカ人選手タイロン・ウッズは、移籍後も同様に活躍を続ける。狭い横浜スタジアムから広いナゴヤドームに移ることで成績が下がると思われていたが、タイロン・ウッズには関係なかった。移籍初年度に38本塁打を放つと、2年目には自己最高となる47本塁打144打点で本塁打王、打点王の二冠王を獲得する。一方で三振も多く、毎年130個以上の三振を喫している。中日ドラゴンズ在籍4年間で155本の本塁打を放った最強スラッガーの1人だ。

中日から羽ばたきメジャーリーガーへチェン・ウェイン

2005年に中日ドラゴンズと契約し育成契約を経由しながら2008年に一人前となった台湾・高雄市出身のチェン・ウェインは、報われない左腕エースだった。2009年には防御率1.54と好成績を残したものの味方打線の援護がなく8勝4敗という成績に終わってしまう。最優秀防御率のタイトルを獲得できたのが唯一の救いだろうか。2011年まで中日ドラゴンズで活躍し36勝30敗、防御率2.59の成績を残しボルチモア・オリオールズへと羽ばたいた。
メジャーでのチェン・ウェインは初年度から二桁勝利を上げるなど戦力として活躍している。2016年はイチローと同じくマイアミ・マーリンズ・マーリンズに所属していた。

ビシエド旋風が巻き起こった!メジャーでも大活躍だったダヤン・ビシエド

2016年シーズン開幕から3試合連続本塁打を放つなど”ビシエド旋風”を巻き起こしたダヤン・ビシエドはバリバリのメジャーリーガーだった。キューバリーグで実績を積んだ後シカゴ・ホワイトソックスで5年間プレーし、通算66本塁打を記録。まだ27歳という年齢もあり大いに期待されていた。しかし、アメリカでは守備に多少難ありということもあり望む契約が見つからず日本にやってきた。そして1年目からケガによる離脱はあったものの打率.274、22本塁打、68打点という成績を残し帰国した。来シーズン以降の契約が注目されている。

まとめ

中日ドラゴンズは球団の歴史が古いということもあり、外国人選手の数も豊富だ。紹介しきれなかった外国人選手も多数存在する。打者、投手ともに大当たりの外国人を獲得することが多く今後どんな外国人選手を獲得してくるか、楽しみなところだ。