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【グラフィック年表】ダルビッシュ有の軌跡-11 Legendary stories of Yu Darvish-

2018 1/25 18:14SPAIA編集部
ダルビッシュ年表-SPAIA
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2017年シーズン終了後にFAとなったダルビッシュ有。日米通じ大きな実績を残してきた。そんなダルビッシュの軌跡を、彼の愛する「11」という数字にちなんだグラフィック年表とともに振り返ってみたい。

ダルビッシュ年表-SPAIA

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東北高校時代

①第76回選抜高校野球大会でノーヒットノーラン

イラン人である父と日本人の母の間に産まれたダルビッシュ。小学生から野球をはじめ、中学時代は羽曳野ボーイズでプレーし世界大会3位の実績を残した。この結果から多くの高校から勧誘が来るなかで、東北高校を選択する。
入学後、期待通りの活躍を見せたダルビッシュは1年秋からエースに君臨。2年春のセンバツから4季連続で甲子園に出場するなど、高校時代にも大きな実績を残している。2度目の甲子園となった2年夏の甲子園では常総学院高(茨城県)に敗れ準優勝。このときに泣いたことは、野球関連で唯一の涙だったと、のちに自身のSNSで語っている。最高学年となった新チームでは主将になるも、まとまらず崩壊寸前。しかし、甲子園では春のセンバツ1回戦の熊本工業高(熊本県)戦でノーヒットノーランを達成しベスト8と結果を残す。最後の夏は2試合連続完封を記録するなど好投を続けるもベスト16で敗退となった。

 

②ドラフト1位で北海道日本ハムファイターズへ

甲子園での活躍もあり超高校級投手と称されていたダルビッシュ。2004年ドラフト会議では、複数の球団から1位指名も予想されたが、北海道日本ハムファイターズが単独で1位指名となり結果として一本釣りとなった。ちなみに、この時に高校時代のライバル涌井秀章(当時横浜高校)は同じく1位指名で埼玉西武ライオンズ入りした。

日本ハム時代

③MVPなど4部門受賞

高卒1年目ながら6月に一軍昇格を果たしたダルビッシュは、初先発初勝利をマークしローテーションへ定着する。2年目(2006年)には12勝5敗、防御率2.89の成績を残しエース級の働きをみせた。3年目(2007年)に初のタイトルとなる最多奪三振を獲得する。その他の投手タイトル獲得はならなかったものの、沢村賞の基準7項目を全てクリア。沢村賞ならびにMVP同時受賞となった。

 

④北京オリンピックに出場するも結果を出せず五輪期間中に丸刈りに
⑤WBC決勝で胴上げ投手に

ダルビッシュは球団だけでなく日本代表として国際試合にも出場している。2008年北京オリンピックでは結果を出せず、オリンピック開催期間中に自身の髪を丸刈りにしてしまった。 しかし、2009年の第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、決勝で9回に同点へと追いつかれたものの、イチローの勝ち越し打で2点リードを奪った10回裏を無失点に抑え胴上げ投手となった。

 

⑥2度目のMVPなど4部門受賞
⑦最優秀防御率・最多奪三振を受賞

WBC後のシーズンでは2度目のMVPを受賞するなど、球界を代表する大エースへと成長。2010年の交流戦では前田健太(現ドジャース)の成長のために自分の球種全てを投じる『粋』な面もみせている。それ以降も最優秀防御率、最多奪三振などを獲得。ハイレベルな成績で安定し、2011年まで5年連続で防御率1点台をマークした。同時に年俸もうなぎ登りとなり、2009年11月に史上最速(高卒5年目)、最年少で3億円を突破する年俸3億3000万円(推定)で更改。2011年には再び史上最速、最年少で年俸5億円(推定)となった。

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