最初の球団はブルワーズ
青木宣親選手は2011年オフにポスティング制度を利用しミルウォーキー・ブルワーズへと移籍する。ブルワーズは青木選手に対し最高額を入札し独占交渉権を得たにも関わらず入団テストを実施。青木選手はテストを受けた上での契約となった。これはポスティングを利用して日本からメジャーリーグへ移籍した選手で初の事例だった。
スプリングトレーニングで好成績を残した青木選手は、開幕スタメンこそ奪えなかったものの代打で出場する。初打席は三振だったがメジャーデビューを果たしたのだ。4月は代打での出場が多かった青木選手だが月間打率.304をマーク。与えられた役割をこなしていった。
5月中旬以降からはスタメンに定着しリードオフマンとしてチームに貢献。シーズン終盤までほぼスタメン起用が続いた。
余談ではあるが、このシーズンは後にDeNAへやってくることになるナイジャー・モーガン選手とポジションを争っていたのだ。後に青木選手は「モーガンはトラブルメーカーのイメージがあるけどそんなことはない」と語っている。
1年目の青木選手は151試合に出場し打率.288、10本塁打、50打点、30盗塁の成績を残し新人王投票でも5位に入る。テスト入団でありながらも、1年目の青木選手が1年目で結果を残したのだ。
2年目となる2013年は開幕からスタメンで起用されると本塁打を放ち起用に応える。1年間フルで働いた青木選手は155試合に出場。打率.286、8本塁打、37打点、20盗塁と安定した成績を残した。
シーズン終了後に青木選手はカンザスシティ・ロイヤルズへとトレードで移籍する。ここから青木選手のジャーニーマン人生が始まったのだ。2016年現在で2年以上在籍した球団はブルワーズだけとなっている。
2球団目は低迷が続くロイヤルズ
青木選手の2球団目はロイヤルズだった。2014年当時のロイヤルズは、ワールドチャンピオンになった1985年以降、ポストシーズンへの進出がない弱小チームだった。2013年シーズンで10年ぶりの勝率5割を達成したが、前評判もよくなく苦戦が予想されていた。
青木選手は、そんなロイヤルズで1番ライトの定位置を掴む。チームも好調で6月には10年ぶりとなる10連勝を達成。その間、青木選手は7試合に出場し6試合でヒットを放つ活躍をみせた。しかし、連勝が止まった直後に肉離れを起こし故障者リスト入りとなる。メジャー移籍後初の故障者リスト入りだった。
3週間ほどで青木選手は復帰するとほぼ、シーズン終了までスタメン出場を果たしワイルドカード獲得に貢献した。
ロイヤルズは1985年以来のポストシーズンに進む。青木選手にとっても初のポストシーズンだった。チームはワールドシリーズまで進むが最後はサンフランシスコ・ジャイアンツに3勝4敗で敗れ惜しくもチャンピオンリング獲得はならない。
青木選手はスタメンで出場してはいるものの、打撃も低調でワールドシリーズでは14打数1安打、打率.071と大ブレーキとなってしまったのだ。また、守備を不安視され守備固めを出されるなど残念なシリーズとなってしまった。アメリカのメディアでも青木選手の守備は酷評されており「ボールに”もてあそばれ”ている」、「子犬を追いかけているようだ」といった厳しい表現もされている。
シーズン終了後に青木選手はワールドシリーズで戦ったジャイアンツへ移籍するのだ。
3球団目はワールドシリーズで敗れたジャイアンツ
2015年青木選手のメジャーリーグ3球団目は、前年のワールドチャンピオン、ジャイアンツだった。ブルワーズ、ロイヤルズではライトを守ることの多かった青木選手だがジャイアンツではレフトを守ることになる。ジャイアンツには不動のライトであるハンター・ペンス選手がいたことが大きいだろう。
しかし、スプリングトレーニングでペンス選手がケガをして開幕絶望になってもライトのポジションに青木選手がつくことはなかった。前年のワールドシリーズでまずい守備をみせたことも影響しているかもしれない。
1番レフトで定位置を掴んだ青木選手は開幕から好調をキープするが、6月中旬に受けた死球で骨折してしまい故障者リスト入りとなってしまう。復帰後に頭部死球を受け故障者リストに入る。一度は復帰するが脳震盪の疑いがあり再度抹消。シーズン中に復帰はならなかった。
青木選手にとってメジャー移籍後最小となる93試合の出場に終わってしまい、不完全燃焼となったシーズンだ。
シーズン終了後にはシアトル・マリナーズへと移籍する。
4球団目は岩隈選手の所属するマリナーズ
2016年青木選手のメジャー4球団目は岩隈久志選手も所属するマリナーズだった。マリナーズでも青木選手はジャイアンツ同様にレフトの定位置を掴む。
しかし、開幕から打撃のリズムが掴めず6月半ばになっても打率.250を切ったままだった。マリナーズ首脳陣は青木選手を3Aに降格させる。3Aでの青木選手は24試合で打率.323と打撃を取り戻し1ヶ月後にメジャー復帰を果たす。
以降はスタメン出場をするも途中で交代するケースが多く見受けられた。
これは、青木選手の契約に理由があった。青木選手とマリナーズの間では『2016年シーズンに480打席へ到達すると2017年シーズンの契約が自動更新となる』といった契約があったのだ。
不調がなくレギュラーで出場を続けていれば480打席はクリアできる数字だったが1ヶ月の離脱があったためにギリギリの数字となったのだ。ここで、マリナーズは打席を480打席に届かないよう調整したといわれている。最終的に青木選手は467打席となり自動更新となる480打席には13打席届かなかった。
シーズン終了後に青木選手はヒューストン・アストロズへ移籍する。
5球団目は同地区のアストロズ
2017年シーズンの青木選手はメジャー5球団目となるアストロズで開幕を迎える。毎年のように所属球団の変わっている青木選手は移籍にも慣れておりWBCへの出場も許可された。
日本球界では移籍が活発ではないが、メジャーでは青木選手のように、毎年のように所属球団が変わる選手は珍しくない。そういった移籍の多い選手を『ジャーニーマン』と呼ぶのだ。ジャーニーマンは決して実力がないのではなく必要とされているチームがあるからこそ誕生する。
メジャーは実力がなければ移籍先を見つけることができず、引退となってしまう。ジャーニーマンとして毎年のように移籍することは青木選手の実力が認められているということの裏返しでもあるのだ。