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第1回大会にも出場を果たした甲子園の常連!早稲田実業学校を振り返る

2017 9/13 14:03cut
高校野球
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早稲田実業学校と甲子園

2017年夏の甲子園には惜しくも届かなかった早稲田実業学校(以下早実)。入学時から注目されていた、怪物スラッガーの清宮幸太郎選手を主将とし西東京大会を勝ち進んだが、決勝で東海大菅生高校に敗れている。このように、注目を浴びることの多い早実は今までに多くの名勝負を生み出し、そしてプロ野球選手を輩出している。

その早実が初めて夏の甲子園の舞台に姿を現したのは、記念すべき1915年の第1回大会だ。(当時は甲子園球場がなかったために大阪府の豊中グラウンドで行われている。)この大会で早実は初戦に勝利し甲子園初勝利をマーク。しかし、その後の東京代表は6年連続で慶応普通部と慶応の独壇場が続いた。

早実が2回目の出場を飾ったのは1922年に行われた第8回大会。その年から7年連続で夏の大会に出場するなど、慶応に変わって黄金期を築いている。また、その連続出場中である1924年に行われた第1回春のセンバツにも出場を果たし準優勝。甲子園初期から強豪として名を馳せていたのだ。

1957年春のセンバツにおいて甲子園初優勝。この時の優勝投手はのちに「世界の王」と呼ばれることになる王貞治選手(元巨人)だった。また、夏の選手権では2006年に斎藤佑樹選手(現日本ハム)が初優勝を果たしている。以降も出場を果たしており、2017年夏の選手権大会までに合計50回(春21回、夏29回)の出場を誇っており、通算66勝(春23勝、夏43勝)をマーク。第1回大会から続く伝統を継続し、まさに「都の名門」として君臨しているといっていいだろう。

プロ入りした早稲田実業の卒業生たち

2017年現在で早実出身のプロ野球選手は重信慎之介選手(巨人)、斎藤選手の2人だけ。しかし、過去を遡ると偉大な選手が名を連ねている。最も有名な選手は王選手だろう。また、王選手の師匠にあたり一本足打法を考案した荒川博選手(元毎日)も同様に早実出身だ。

「安打製造機」の異名を取り高卒1年目から打率.298、16本塁打、67打点と結果を残し、新人王を獲得した榎本喜八選手も同校から毎日オリオンズへと進んでいる。

ドラフト制以後には横浜ベイスターズで監督も務めた大矢明彦選手、近鉄バファローズでベストナインに輝いた石渡茂選手らを輩出。1980年代になると「大チャンフィーバー」を巻き起こし松坂大輔選手(ソフトバンク)の名前の由来でもある、荒木大輔選手(元ヤクルト)がプロ入り。

このように多くの名プレーヤーを輩出している。

早実時代から凄かった!王貞治選手

世界記録となるプロ通算868本塁打を放っている王選手。読売ジャイアンツで長嶋茂雄選手と「ON砲」を結成。巨人の黄金時代となるV9を達成するなど球史に輝かしい足跡を残している。その王選手は早実から巨人へ入団しており、甲子園でも活躍を見せていた。

王選手が早実を選んだのには理由がある。それは、中学時代に目をつけてもらった荒川選手(当時毎日オリオンズ)の母校が早実だったことに起因する。「荒川さんとの出会いがなければ、野球をやろうと早実に行かなかっただろう」とも後に語っているほどだ。

縁あって入団した早実では1年時からレギュラーとして出場。1年夏から3年春までの4季連続で甲子園の土を踏んでいる。なかでも、2年春のセンバツでは1回戦でノーヒットノーランを達成すると、そのまま優勝まで駆け上がり同校の初優勝に大きく貢献した。また、翌3年春のセンバツではベスト8で敗退するも2試合連続本塁打を放っている。このように、早実時代の王選手は投打に渡り甲子園で結果を残していたのだ。

90年越しの夢を叶えた斎藤佑樹選手

2018年夏に開催予定である夏の甲子園が第100回大会となる。その歴史を紐解く上で2006年に行われた、第88回夏の選手権大会を外すわけには行かないだろう。この大会は南北海道代表である、駒大苫小牧高校が田中将大選手(現ヤンキース)を擁し夏3連覇を賭けて出場しており、世間の注目はそこに集まっていた。斎藤選手そして早実もこの時点での注目度は高くなかったのだ。

しかし、2回戦で怪物スラッガーの中田翔選手(現日本ハム)擁する大阪桐蔭高校を撃破。以降も順調に勝ち進み、決勝進出し、駒大苫小牧高校と決勝で対戦することになった。

この対戦は1-1で延長15回引き分け。規定により、再試合となった。再試合でも接戦となったが最後は斎藤選手が、田中選手を空振り三振に打ち取り4-3で優勝を飾っている。最後の打者が田中選手というのも何かの因縁なのだろうか。この大会の主人公2人が最後に対戦し幕を閉じた。

優勝時の実況である「燃える思いの、静かなエース斎藤佑樹が、都の名門の90年越しの夢を叶えました。西東京、早稲田実業、夏の甲子園初優勝」は名実況として語り継がれている。

清宮幸太郎選手の本塁打

1年時から常に注目を浴び続けてきた清宮選手。初めての甲子園は1年夏(2015年)の選手権大会だった。早実は清宮選手が取り上げられていたものの、決して前評判は高くなかった。しかし、初戦の今治西高戦(愛媛県)を6-0で快勝すると、2回戦の広島新庄高校戦では7-6と接戦をものにし、3回戦まで駒を進めた。この2試合で清宮選手は本塁打こそ出なかったものの、8打数3安打2打点の成績を残している。

待望の甲子園初本塁打が生まれたのは3回戦の東海大甲府高校戦(山梨県)だ。1-1で迎えた3回表に右中間スタンドへ甲子園初本塁打をマーク。右中間スタンドの深いところへ飛び込む文句なしの本塁打だった。この試合で清宮選手は4打数3安打1本塁打5打点と大活躍を見せ8-4で勝利。準々決勝へと進む。ベスト4を賭けた九州国際大付属高校(福岡県)戦では2試合連続となる1発。1年の夏から2本塁打を放った選手でプロ入りした選手では、桑田真澄選手(元巨人他)が有名だ。中田選手、清原和博選手(元オリックス他)ら稀代のスラッガーがマークした1本をこの時点で超えていた。

この大会ではベスト4で仙台育英高校に敗れ涙をのんだが、打率.474(19打数9安打)、2本塁打、8打点と結果を残し実力の片鱗を見せつけた。以降も本塁打記録は伸び続け、1年終了時点で22本、2年終了時点で78本をマーク。最後の夏までで107本まで記録を伸ばした。史上最多とされている神港学園高校の山本大貴選手と並び高校通算本塁打で最多タイとなった。

早実は清宮選手一色だった3年間だが、1年後輩の野村大樹選手も注目のスラッガーとして話題となっている。清宮選手に続き早実から大物が生まれるかに注目が集まる。