横浜商業高校の歴史
横浜商業野球部の歴史は大変古く、創部は1896年だ。初代監督は、日本の野球創世記において大きな功績を残し、野球殿堂入りを果たした青井鉞男氏だ。甲子園出場は神奈川県では一番最初で、1923年に初出場を果たしている。歴史ある横浜商業高校はY校の愛称で高校野球ファンに親しまれている。
その後、群雄割拠の神奈川県予選の中で、2017年春現在、春9回、夏7回の甲子園出場を誇っている。1997年春を最後に甲子園出場に届いておらず、高校野球ファンに復活を望まれるチームの1つだ。
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横浜商業高校野球部は、日本に野球が伝わった最初期から硬式野球部がある非常に歴史あるチームだ。名将小倉清一郎氏が指導していた時期には、黄金時代を迎えた。横浜商業出身のプロ野球選手には、育成ドラフトドリームを掴んだ選手もいる。
横浜商業野球部の歴史は大変古く、創部は1896年だ。初代監督は、日本の野球創世記において大きな功績を残し、野球殿堂入りを果たした青井鉞男氏だ。甲子園出場は神奈川県では一番最初で、1923年に初出場を果たしている。歴史ある横浜商業高校はY校の愛称で高校野球ファンに親しまれている。
その後、群雄割拠の神奈川県予選の中で、2017年春現在、春9回、夏7回の甲子園出場を誇っている。1997年春を最後に甲子園出場に届いておらず、高校野球ファンに復活を望まれるチームの1つだ。
横浜商業高校の黄金時代として高校野球ファンに取り上げられるのは、小倉清一郎氏がコーチに就任していた1978年から1990年だ。小倉清一郎氏と言えば、厳しい罵声を選手に浴びせ、ノックを行う鬼コーチとして知られている。
一方で、相手投手の癖を見抜く鋭いスカウティング能力で、作戦を立てるなど高校野球ファンには名将の1人に数えられている。そんな小倉清一郎氏が指導していた時期には、夏の甲子園に5回、春のセンバツに3回出場している。
小倉清一郎氏のコーチ時代のハイライトは1983年だ。春・夏甲子園準優勝という成績を残している。
この年の横浜商業のエースは、後に中日ドラゴンズにドラフト3位指名された三浦将明氏だ。大きなカーブを武器にしたいいピッチャーだった。1983年の春のセンバツは、この三浦将明氏の抜群の投球もあり、決勝まで4試合中3試合完封試合という素晴らしい形で勝ち進んだ。しかし、決勝は当時最強チームのやまびこ打線の徳島県代表池田高校。0対3と水野雄仁氏を打ち崩せず敗戦した。
1983年の夏も1回戦で鹿児島の強豪鹿児島実業に延長10回の試合を5対4で制すると、勢いに乗ったチームは危なげなく決勝までコマを進める。しかし、決勝の相手は王者池田高校に準決勝で大勝した大阪のPL学園。1年生の桑田真澄氏と清原和博氏のKKコンビの活躍もあり、またも0対3で敗れてしまった。
小倉清一郎氏が指導していた横浜商業高校野球部の黄金時代に誕生した代表的なプロ野球選手は、新井幸雄氏だ。
野村克也氏が監督に就任していた1990年から1998年まで、ヤクルトスワローズはリーグ優勝4度、日本一3度と黄金時代を迎えるが、新井幸雄氏は1995年までヤクルトに在籍し、3度のリーグ優勝と2度の日本一に貢献している。小柄ながらシャープなバッティングで打率を残し、1987年の入団2年目には打率.301を記録し、セ・リーグ新人王に輝いた。
横浜商業の黄金期以降は、なかなか甲子園出場も叶わず、プロ野球選手もなかなか排出できないでいたが、2005年のドラフト会議で育成指名された山口鉄也投手は横浜商業の出身だ。
山口鉄也投手は育成ドラフトドリームを掴んだ選手として知られている。2007年に中継ぎで32試合の登板を果たすと、2008年は獅子奮迅の活躍。67試合に登板すると11勝をあげて、セ・リーグ新人王に輝く。その後、2016年には9年連続の60試合登板を果たし、通算ホールドは270を数え、鉄也の名の通り球界の鉄人として活躍している。
横浜商業高校野球部の歴史を紹介した。日本の野球創世記に関わった非常に歴史あるチームで、名将小倉清一郎氏がコーチとして指導していた時期は、春夏甲子園準優勝も果たしている。近年は甲子園出場がないので、古豪復活が待たれる。