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高校野球創世記を支えたチーム!愛知商業高校野球部の歴史を紹介

2017 3/29 18:30出井章博
野球
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Photo by mTaira/shutterstock.com

愛知商業高校野球部の歴史を紹介する。愛知商業高校野球部は、近年は甲子園出場はないが、高校野球創世記に強豪として名を残したチームだ。中日ドラゴンズで活躍した投手など多くのプロ野球選手も輩出している。

愛知商業高校野球部の歴史

1919年に創立の愛知商業高校の野球部は、中京大中京、東邦、愛工大名電、享栄の愛知私学4強となる前の時代に、愛知県の高校野球界に強豪として君臨していた。昭和初期には、愛知一中(現愛知県旭丘高校)と愛知県の高校野球で双璧をなしており、1925年の夏の選手権で甲子園初出場、春のセンバツには1928年に初めて出場している。
春のセンバツは10回甲子園に出場、夏の選手権には6回出場している。プロ野球創世記に多くのプロ野球選手を輩出した高校だ。

1936年のセンバツで甲子園初優勝

愛知商業高校は1936年の春に行われた第13回選抜中等学校野球大会、現在の選抜高校野球大会で甲子園初優勝した。20校で行われた大会だったが、当時は野球が盛んな地域の偏りもあり、愛知県からは愛知商業の他に、享栄商業(現享栄高校)と東邦商業(現東邦高校)が出場した。
2回戦から登場した愛知商業は、広島県の呉港中(現呉港高校)を4対1で退けると、準々決勝は兵庫県の滝川中(現滝川高校)に7対0で危なげなく勝利する。準決勝は京都府の平安中(現竜谷大平安高校)に6対3で勝ち、決勝は群馬県の桐生中(現桐生高校)と対戦する。白熱する投手戦は、9回表まで1対1の同点。
愛知商業が9回裏に1点をあげ、サヨナラ勝ちで感動的な初優勝を果たした。

プロ野球創世記を支えた名選手

愛知商業が甲子園で優勝した1936年より10年ほど前、愛知商業は夏の選手権大会で優勝するチャンスがあった。エース水谷則一氏を擁する愛知商業は勝ち進む。準々決勝で、東京都の早稲田実業高校を延長12回8対7のサヨナラ勝ちで下すと、準決勝は香川県の高松商業と対戦する。
高松商業のエースは、後に昭和の名監督となる水原茂氏。白熱した投手戦だったが水谷則一氏の好投むなしく、0対1で敗戦した。水谷則一氏は、慶応義塾大学を経て、大東京軍に参加。日本プロ野球最初の試合に3番バッターで出場し、日本のプロ野球で初めて左打席に立った打者として記録に残っている。

戦争を乗り越えた小技の名手

第二次世界大戦中には、プロ野球選手も例外なく招集されていた。そんな戦争を挟んで活躍した愛知商業高校のOBは玉腰忠義氏だ。
愛知商業高校が甲子園優勝を果たした翌年、1937年の春のセンバツ大会に玉腰忠義氏は出場する。社会人を経て、1940年に黒鷲軍に入団、小技の光選手として活躍していたが、1943年に召集令状に応える。戦争を経て、5年後の1947年に金星スターズでプロ野球に復帰すると、俊足好打の選手、またバントの名手として活躍した。
プロ野球で通算469安打を放っているが、一番活躍できる時期を戦争によってプレイできなかったのは残念だ。

愛知商業出身の名コーチ

愛知商業高校野球部OBで長らくプロ野球界に貢献した人物として思い浮かぶのは、水谷寿伸氏だ。愛知商業時代は、甲子園出場はならなかったが、卒業後1959年に中日ドラゴンズに入団。投手だったが、肩のケガもあり、なかなか1軍に定着できないでいた。
しかし、1964年にリリーフ中心で好成績を収めると、翌1965年には先発で15勝。その後も先発とリリーフで長きに渡って活躍する。実働14年で71勝をあげ、オールスターゲームにも2度出場している。選手を引退後は、中日ドラゴンズの投手コーチとして多くの若手を育てた。

まとめ

愛知商業高校野球部の歴史を紹介した。愛知商業高校野球部は、高校野球創世記に愛知県の強豪として君臨しただけでなく、甲子園優勝も果たした全国屈指の強豪だった。1957年の春のセンバツを最後に甲子園出場はないが、古豪復活を待ち望みたい。