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埼玉県の強豪浦和学院高校野球部の歴史を振り返る!

2017 3/29 18:30出井章博
野球
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Photo by mTaira/shutterstock.com

埼玉県は、大阪府や神奈川県と並び高校野球の大激戦地だ。埼玉県の浦和学院高校野球部は名将が率い、多くのプロ野球選手を輩出してきた名門チーム。その歴史や代表的なOBを紹介する。

浦和学院高校の礎を築いた野本喜一郎氏

浦和学院高校野球部は1978年に創部した。しかし、創部当初は決して強豪ではなかった。その浦和学院高校野球部を変え、強豪校としての礎を築いたのは野本喜一郎氏だ。野本喜一郎氏は元プロ野球選手で、西日本や西鉄、近鉄で通算18勝をあげた投手。
引退後、上尾高校で甲子園に6回出場し、さらに東洋大学の監督として多くのプロ野球選手を育てている。1984年にその野本喜一郎氏が監督に就任すると、1986年の夏に早くも浦和学院を甲子園初出場に導いた。
残念ながら体調を崩し、甲子園初戦の指揮を揮うことなく、監督を辞任。甲子園の開会式当日に64歳の若さで亡くなってしまった。しかし、浦和学院の礎を築いたのは間違いない。

名将の考えが名将に受け継がれるDNA

1991年に森士(おさむ)氏が監督に就任する。森士氏は野本喜一郎氏の上尾高校時代の教え子で、1982年の春のセンバツでは、2年生ながら甲子園に出場している。野本喜一郎氏の野球のDNAを受け継ぐ森士氏は、27歳の若さで浦和学院高校野球部の監督に就任すると、1992年の春のセンバツで、早くも甲子園ベスト4に導く。
その後、森士氏は浦和学院高校野球部を強豪に育て上げた他、高校生年代の日本代表監督も務め、高校野球をけん引する監督の1人だ。

坂本弥太郎氏と旋風を巻き起こした2000年夏の甲子園

浦和学院高校野球部と言えば、2000年の夏の甲子園を思い出す方も多いかもしれない。好投手坂本弥太郎氏を擁し、優勝候補の一角にも数えられた。
坂本弥太郎氏は、前評判通りのピッチングを見せてくれる。浦和学院の1回戦は滋賀県の八幡商業戦。坂本弥太郎氏は19奪三振を奪い、奪三振の甲子園タイ記録を作っている。この試合を2対1で勝つと、坂本弥太郎氏は2回戦も16奪三振を奪っている。惜しくも試合は1対5で敗れたが、坂本弥太郎氏の奪三振ショーは圧巻だった。
ちなみに、坂本弥太郎氏はその後、ヤクルトスワローズに入団、トレードもあったが、プロ通算19勝をあげている。

2013年春のセンバツで甲子園初制覇

強豪校の1つに数えられるようになって久しくなった浦和学院だったが、なかなか甲子園制覇を成し遂げることはできないでいた。
悲願の甲子園初制覇を果たしたのは、2013年の春のセンバツだ。初戦で高知県の土佐高校を4対0で完封勝利すると、3回戦の山形県の山形中央戦は11対1の圧勝。準々決勝の北海道の北照戦も10対0の圧勝、準決勝の福井県の敦賀気比戦も5対1、決勝も愛媛県の済美高校を17対1と、投打に圧倒的な強さを見せて甲子園初制覇を果たした。

浦和学院高校からジャイアンツのローテーションピッチャーへ

浦和学院高校野球部は20人を超える多くのプロ野球選手を輩出している。その中から現役の選手の1人、読売ジャイアンツの大竹寛投手を紹介する。
広島カープに2001年にドラフト1位で指名され入団すると、4度の二桁勝利をあげるなど長く先発ローテーションを守った。2014年からは読売ジャイアンツにFA移籍し、巨大戦力のチームで、先発ローテーションを巡って厳しい戦いを強いられている。2017の開幕時点で92勝をしている。

まとめ

浦和学院高校野球部の歴史を振り返った。浦和学院高校野球部は名将に導かれ、甲子園制覇も果たした強豪校だ。読売ジャイアンツの大竹寛投手など多くのプロ野球選手を輩出してもいる。今後も目が離せないチームだ。