正式な創部は1929年
日大三高野球部は、本来、1918年に創部されている。もう100年近くも前のことだ。しかし、同年の全国高等学校野球選手権大会第4回大会(この年は米騒動により結局大会は中止になっている)の予選には出場しているものの、記録としては、次に大会に出場するのは12年後の1930年、第16回大会まで空白の期間がある。
野球部創設時は「私立赤坂中学校」という校名だった。日本大学へと経営が移されたのが1929年(最初、日本大学赤坂中学校へと改称)、そして日本大学第三中学校と改称されたのが1930年になる。そのため、1929年から日大の名を冠することになったため、日大三高野球部の創部は1929年となる。
徐々に力をつけ、次第に東京屈指の名門校へ
創部当初は同じ地区の早稲田実業に2年連続であたるものの、1-25、0-10と2年連続の大敗。まったく手も足も出ないという実力差だった。しかし、徐々に力をつけていき、1938年の春に初の甲子園出場を果たすと、同年の夏にも甲子園の地を踏む。
さらに、1939年の春、1940年の夏にも甲子園に出場。1940年に出場した際には甲子園初勝利も挙げ、準々決勝まで進むなど大躍進だった。その後もどんどん力をつけていき、いつしか東京随一の強豪校へと成長。1971年の夏には初の全国制覇を達成している。
【2001年その1】4人ものプロを輩出した2001年
近年の活躍といえば、2001年と2011年が印象深いところだ。まず2001年の大会から紹介していこう。
この年はエースに近藤一樹選手(後に近鉄に入団、現ヤクルトスワローズ)、控えの投手には千葉英貴さん(元横浜ベイスターズ)と、投手陣が非常に充実。野手の方では都築克幸さん(元中日ドラゴンズ)や、内田和也さん(元ヤクルトスワローズ)も活躍しており、後にプロ入りする選手が4人もいるという非常に戦力が充実していたチームだった。
【2001年その2】超強力打線で他校を圧倒
この年はとにかく打線が好調で、初戦の樟南戦や2回戦の花咲徳栄戦では2試合連続で11得点を記録。すべての試合で先制点を奪っており、特に1番を務めていた都築さんは打率.541(28-16)を記録。彼を筆頭に打率4割超の打者が7人も生まれた。
チーム打率は.427を記録し、さらに本塁打も5試合で7本も飛び出すほど。また、打線の陰に隠れがちだが、準決勝の横浜戦、決勝の近江戦では近藤選手が2試合連続で完投しており、要所での投手陣の活躍も見事だった。
【2011年その1】総合力が素晴らしかった2011年
2011年の大会も紹介していこう。ノビのあるストレートに強力なスライダーとシンカーが武器のエース・吉永健太郎さんに、キャプテンとしてチームを牽引した畔上(あぜがみ)翔さん、高リードが光った鈴木貴弘さん、そして4番にどっしりと座る横尾俊健選手(現日本ハムファイターズ)に、2016年のセリーグ新人王となった高山俊選手(現阪神タイガース)などなど。スター揃いのチームだった。
彼らは1年生の秋から主力として活躍しており、2年生の春には選抜準優勝にも貢献。経験も十分に積んでおり、黄金時代と呼ぶにふさわしい世代だったのだ。
【2011年その2】圧倒的な力を見せつけての優勝
彼らが3年生となった2011年、まずは春の選抜で大暴れする。初戦の明徳義塾戦では3点ビハインドから6回裏に2点、7回裏に1点、8回裏に2点を入れて逆転勝利を決めると、続く静清戦では3-1で危なげなく勝利、さらに、準々決勝の加古川北戦では13-2と投打にわたって圧倒す。残念ながら準決勝で敗れてしまいベスト4だったが、強烈なインパクトを残した。
圧巻だったのは夏の甲子園だ。1回戦で日本文理から14得点を奪って圧倒すると、続く開成(島根)戦でも11得点を奪って勝利。打線はなんと6試合中4試合で2ケタ得点をい記録した。投手では吉永さんがほぼ1人で投げ抜き、準々決勝の習志野(千葉)戦、さらに決勝での光星学院戦では完封勝利を記録。ここ一番での最高のピッチングを見せ、見事に優勝を果たしたのだ。
まとめ
圧倒的な成績で優勝を果たしたことが2度もある日大三高野球部。そういった年は多くの選手がプロへと進んだ。
2011年に活躍した選手たちも、大学を経由してすでに2人がプロ入りしている。
他の選手たちは社会人に進んだが、まだまだスカウトたちの注目度も高い。今後も注目していきたい。