中日・大野の達成にソフトB・千賀「早すぎです」
まず9月6日にソフトバンクの千賀滉大がロッテ戦で令和初、史上80人・91度目となるノーヒットノーランを達成。育成選手では初めて、ソフトバンクでは1943年の別所毅彦(当時・南海、別所昭)以来76年ぶり2人目の偉業を成し遂げた。
NPBを代表する投手の一人となった千賀だけに納得の快挙だが、南海-ダイエー-ソフトバンクという強豪チームの系譜のなかで2人目という事実に少し驚いたファンも多かったのではないか。
その興奮が冷めやらぬ中、そのわずか5日後には中日の大野雄大が阪神戦でノーノーを達成。5歳年下の千賀からは「達成するのが早すぎです」とメールが届いたという。中日では13年6月28日の山井大介以来の快挙となったが、中日の投手では前身の名古屋時代を含め12人目と、ソフトバンクを大きく圧倒している。

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球団別のノーノーを調べてみると、巨人が16人で最多となっている。NPBで最初にノーノーを達成した伝説の名投手・沢村栄治が3度、完全試合を初めて達成した藤本英雄などが2度記録している他、現時点では最後の完全試合達成者である槙原寛己など錚々たるメンバーが並ぶ。
その次に並ぶのが中日の12人なのだが、このチームのノーノーを達成した投手にはさまざまなドラマがある。
「ミスタードラゴンズ」西沢が最初に達成
中日で最初にノーノーを達成したのは西沢道夫(当時は名古屋)だ。今でも中日ファンの間では「初代ミスタードラゴンズ」と呼ばれる西沢だが、達成の翌年、1943年に日本軍に応召。46年に復員後は肩の故障で投手を断念、打者として212本の本塁打を放ち中日初のリーグ優勝と日本一に貢献、現役引退後は監督も務めた。背番号15は永久欠番。野球殿堂入りもした、投げてよし、打ってよしのスーパースターだった。
西沢が達成した翌年には石丸進一(名古屋)が続いた。これが戦前最後のノーノーだったが、石丸は学徒出陣で招集され、プロ野球選手としては唯一、特攻隊員として戦死した。その生涯は「人間の翼 最後のキャッチボール」という映画にもなった。
史上初・初登板で達成した近藤真一
高卒1年目の87年8月9日に、初登板で巨人相手にノーノーを達成したのが近藤真一だ。享栄高3年で迎えたドラフト会議では5球団が競合した逸材の鮮やかなデビューだった。初登板でのノーノーはプロ野球史上はじめてで、それ以降に続く投手はいない。
この年、4勝をあげた近藤は、翌年に8勝したものの故障に泣き、プロでの勝ち星は2年間の12勝で終わってしまったが、今でも記憶に残る投手だ。
最年少だけでなく最年長も中日の選手。近藤が19歳で達成した大記録を、2006年に41歳で成し遂げたのが山本昌だ。もちろん史上最年長記録で、山本は翌年から15年に50歳で引退するまでに28勝を積み上げ、その間、08年にこれまた史上最年長での200勝を記録した。
日本シリーズで「完全」を逃した山井が堂々のノーノー
ドラマチックなノーヒットノーランといえば、山井大介を忘れるわけにはいかない。
2007年の日本シリーズは、中日と日本ハムが激突した。3勝1敗と日本一まであと1勝とした中日が日本一をかけた第5戦でマウンドに送ったのが山井だった。本拠地ナゴヤドームで山井は8回まで完全試合ペースの快投で打者24人を86球で封じ込めた。史上初の日本シリーズでの完全試合への期待が高まる中、当時の落合監督は9回表に守護神・岩瀬仁紀を迷うことなく救援に送った。
岩瀬は3人を完璧に抑え、日本シリーズ初の継投による完全試合を達成し、53年ぶりの日本一に輝いた。この采配は論議を呼んだ。一部では悲劇のヒーローのように扱われた山井だったが、6年後の2013年、対DeNA戦で堂々とノーノーを達成する。

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高木守道監督が指揮をとったこの年の中日は、11年続いたAクラスが終わった不本意なシーズンとなったが、この年のチーム最多勝投手はその6年後にノーノーを達成する大野雄大だった。
中日のノーノー達成者にはいろいろなドラマが詰まっている。