なぜ‶現役″ではなく‶指導者″の道を選んだのか
「今日はよろしくお願いしますね!」
気持ちが良い挨拶に、人柄の良さがにじみ出ていた。
社会人野球・東芝の新垣勇人(あらかきはやと)ピッチングコーチ。
その名前を聞いて、はっとした読者もいるだろう。昨年まで彼はプロ野球・北海道日本ハムファイターズで投手として在籍。プロ6年間の通算成績は12試合登板で1勝3敗0セーブ、防御率は7.96と、お世辞にも大記録を残した投手とは言い難い。
それでもユニークな性格で知られる彼は、シーズン終了後に行われるファン感謝イベントで毎年のようにMVP級のパフォーマンスを披露するなど、多くのファイターズファンを笑顔にし強いインパクトを残してきた。
「記録よりも記憶に残る選手」
と、言ってはいささか言葉が簡単だが、現在も彼のTwitterアカウントには6万人のフォロワーがいることなどから、どれだけ彼がファンに愛されていたかが窺い知れる。
昨年は選手として、もうひと花咲かせようと右肘の手術を敢行。きついリハビリにも耐え、再起を図っていた矢先の戦力外通告だったが、そんな彼がなぜ、古巣の社会人野球チームで、‶現役″ではなく、‶指導者″の道を選んだのか?
その理由を尋ねると、彼は次のように語った。
「一番は東芝野球部の平馬(へいま)淳監督に声をかけていただいたことです。最初は(プロ野球の)トライアウトも受けたかったですし、現役を続けたい気持ちもありました。もちろん監督にも『選手でやりたいです』と伝えていたんですけど、正直(選手としては)続けられるかどうかも分からない状態でした。それでも誘っていただいたときの監督の想いを感じましたし、何か今の監督に恩返しが出来ればいいかなとも感じまして、それで投手コーチという道を選びました」
平馬監督とは怒られた思い出ばかり
平馬監督と新垣の繋がりはかれこれ12年にも及ぶ。
「僕が東芝に入社したとき、(平馬監督は)すでに11年目の選手でした。いわゆる大ベテランという感じでしたし、憧れと言いますか色んなことを知っている方だったので、よく怒られもしましたし、相手打者として対戦したときは『握り分るよ』と言われて、簡単に打たれたりもしました。現役時代は本当に色々と育ててもらったというか、教えてもらったというか色んな恩を感じています」
新垣に、当時の思い出を聞いてみると入社1年目の頃に寮で鼻歌を歌って怒られたことや、年明けの練習日に、アップ代わりのサッカーで膝を痛め、その日の練習を欠席したことなど、怒られたことばかりである。
「お前の顔なんて見たくないからあっち行ってやっていろ」
そう言って本気で怒鳴られたこともあったし、そんな平馬になんとか認めてもらおうと、日々の練習を必死に取り組んでやって来た。そのことが両者の関係を少しずつ変えて行き、現在の関係に至る。
「1年目は怪我もあったし、活躍も全然出来なくて、色んな厳しいことも言われました。たとえば『1年や2年ですぐにクビになるよ』とか。でも、そこは‶なにくそ魂″というか、ちょっとした反発心といいますか『絶対このままじゃ終わらない』という気持ちをずっと持ちながらやっていましたし、そうやって言われたことが自分の中では凄く良かったことだったと捉えています。
高校、大学ではそこまで言われることが、まずなかったので、上には上がいることを、肌で知ることが出来ましたし、そうやってダメならダメとハッキリ言ってもらえたことが、今の自分に繋がっているんじゃないかなって思うんです」
昨秋、新垣が北海道日本ハムから戦力外通告を受けたときも、現役続行の意を理解して、会社に再入部をかけ合ったのが平馬だった。
しかし、東芝はアマチュアの社員でチーム構成していることに誇りを持っており、新垣の選手としての入団に首を縦に振らなかった。
「『それだけどどうする?』とは、監督からも言われました。だからいったんは考えたんです。選手をやりたいという気持ちも強く残っていたし、もし、ここでコーチ専任を受け入れてしまったら、選手としてはもう出来なくなる。野球を引退することになる。凄く悩みましたね」
復帰へ手術も厳しい現実
新垣がそこまで現役にこだわったのは、昨年右肘の手術をしてまで再起を図った経緯が深く関係していた。
「現役を続けるための手術を受けさせていただいて、まだまだ頑張りたいって想いが当然ありましたし、リハビリも頑張って、ようやくフェニックスリーグで投げられるところまで辿り着いた。その後で、球団に呼ばれて戦力外という経緯だったので、気持ちの部分でも激しい差があったというか、切り替えがとても難しかったです」
右肘の痛みは、一昨年(2017年)の秋頃からすでにあったという。
そこで妙な違和感を覚えつつも、オフシーズンは「休めばまだ投げれるだろう」と、出来るだけ休養に務めながら回復を待った。
しかし、いざキャンプに入ると状態は徐々に悪化。ときには痛み止めを飲みながら、我慢して投げ続けたものの、ある朝、目覚めると肘が90度の位置から伸びなくなっていたという。
痛みはこれまでとは全然比べ物にならなかったし、もちろんブルペンに入ることもできなかった。
そこで球団にも相談。病院で検査を受けると、肘の軟骨の裏を伸ばしたときに棘っぽいものが見つかって、それが原因で、投げる度に軟骨にもぶつかり、徐々に削れて来ているのが分かった。
「このままの状態じゃ投げられない」
「でも、手術をしたら野球人生を続けることすら危ない」
そんな悩みを感じつつも、球団には自分の意思だけはきっちりと伝えた。
「まだ投げたい気持ちはあります」
球団も「全面的にサポートする」「でも、手術はした方が良い」と返した。
そして、新垣は手術を決断。厳しいリハビリにも耐えてきたが、その秋に待っていたのは戦力外通告という厳しい現実。やるせない想いだけが彼の中で残っていた。
味わったことのない感覚
それから数日、時が過ぎた。
東芝からも「選手としては獲れない」と言われ、NPBからも獲得に手を挙げる球団は現れない。
悩みに悩んだ末、出した答えは、現役を諦め、専任コーチとして東芝に加わることだった。
そんな複雑な想いを理解し、会社に掛け合ってくれた平馬監督の男気に応えようと考えた。
「そんな経緯だから最初から割り切ってはいなかったと思うんです。最初は選手と一緒に体も動かしていましたし、一緒にアップもダッシュもランニングも一緒にやっていましたからね。でも、監督は『それでも全然良いんじゃない?』と言ってくれて、自分に理解を示してくれた。『選手と一緒にきついメニューをやるコーチも全然良いと思うし』って…」
これまでの経緯を理解し、傷が癒えるまで温かく見守ってくれた平馬監督のもとで数日を過ごすと、「現役」にこだわっていた自分のわだかまりが徐々に消えて行くのが分かった。
新垣が言う。
「春になって、練習試合や公式戦も始まって、選手が結果を出して、マウンドから帰ってくると、やっぱり自分事のように嬉しかったんですよね。選手と一緒に『ここをこうした方が良いよね』とか『真っ直ぐをしっかり投げ切ろうよ』とかアドバイスもしたりしながら…。
結局、僕は試合には出ていないし、直接は関係ないんですけど、そうやってピッチャーと絡んでいくことに遣り甲斐を感じるようにもなったと言いますか、自分が投げているかのような感覚もあって凄く嬉しかったんです」
ピッチングコーチとして迎えた最初の公式戦、3月のJABA東京スポニチ大会。
先発でマウンドに上がった岡野祐一郎が9回を完封すると、ベンチに戻って来た彼に一言だけ「ナイスピッチャー」と、声をかけた。
その瞬間、これまでの野球人生では味わったことがない新鮮な感覚も覚えた。
「これが指導者としての喜びか」
新垣が新たな道を見つけた瞬間でもあった。