もし、あのケガがなかったら・・・
絶頂期にあった選手が、ケガにより調子を取り戻せないまま表舞台から姿を消すということがある。
年齢のせいではなく、突然のケガが選手の持つ力を奪い取っていくのだ。そうした選手を応援していたファンは途方に暮れ、もしあのケガがなかったらと思いながら、その選手のいないグラウンドを見つめるのだ。
絶頂期にあった選手が、ケガにより調子を取り戻せないまま表舞台から姿を消すということがある。
年齢のせいではなく、突然のケガが選手の持つ力を奪い取っていくのだ。そうした選手を応援していたファンは途方に暮れ、もしあのケガがなかったらと思いながら、その選手のいないグラウンドを見つめるのだ。
ロッテ、ミネソタ・ツインズ、阪神を経て、現在、BCリーグ・栃木に所属する西岡剛もそんな選手のひとりかもしれない。
02年のドラフト会議でロッテの1巡目指名を受けた西岡は、順調にスターへの階段を駆け上がっていく。プロ入り3年目の05年には盗塁王となり、ベストナイン、ゴールデングラブ賞も受賞。この年のロッテは、レギュラーシーズンでは2位に終わるも、プレーオフで西武とソフトバンクを撃破し、31年ぶりのリーグ優勝を果たした。西岡はその優勝に大きく貢献したのだ。
*当時の規定ではプレーオフを制したチームが優勝チームとされていた。

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翌年春、日本が初代王者となったワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では日本代表としてすべての試合に出場。31打数11安打、.355、2本塁打、8打点の成績を残し、球界を代表する選手たちの中で堂々と存在感を示した。

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その後、07年、08年は打率3割をマーク、キャプテンに就任した10年には、日本人の内野手としては初のシーズン200本安打を達成、首位打者も獲得した。球団からポスティングシステムによるMLBへのチャレンジを認められたときはまだ26歳。若き西岡のチャレンジはプロ野球ファンの注目を集めた。
ミネソタ・ツインズに入団した西岡は開幕スタメンを勝ち取ったものの、開幕6試合目のヤンキース戦で、併殺処理の際、走者の激しいスライディングを受けて腓骨骨折の大ケガを負ってしまう。

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なんとか6月に復帰したものの調子は上がらず、不完全燃焼のシーズンとなった。翌年はスプリングトレーニングで左手小指を痛め、3Aに降格。シーズン終了後には契約解除を球団に申し出て自由契約となり、MLBへの挑戦は終わってしまった。
開幕6試合目で散った夢。あのケガがなかったらどんな活躍を見せてくれたのだろうかと考えずにいられない。
しかし西岡は13年、日本に戻り入団した阪神で、鮮やかに復活する。ロッテでスタメンを獲得した05年から10年までと比較しても、打率、打点は遜色がない。
本塁打、盗塁は少し物足りないが、実質2年のブランクがあったこと、初めてのセ・リーグでのプレイだということを考えると合格点と言えるだろう。この年、二塁手としては初めてとなるベストナインにも選出された。

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ところが翌14年、西岡にまた悲劇が襲う。
開幕直後の3月30日、対巨人戦で右翼手の福留と交錯。数カ所を骨折、脱臼するなどの大ケガで、この年の出場は24試合にとどまり、ヒットはわずか9本。深刻な不振に陥った。
故障も癒えた15年は、三塁手としてレギュラーを獲得するも、右肘屈筋挫傷で5月下旬から長期離脱。復帰後は調子を取り戻すことができなかった。
再起を期した16年は二塁手の座を奪取、本拠地の開幕戦ではサヨナラ安打を放つなど上々の滑り出しだったが、左足を故障、復帰後のゲームでアキレス腱を断裂、シーズンを棒に振ることになってしまった。
その後も度重なるケガで思うような成績をあげられず、出場機会も激減。全盛期の西岡に戻ることはなかった。
18年に阪神から戦力外通告を受けた西岡は、NPBへの復帰を目指し栃木への入団を決意した。
開幕から、西岡はBCリーグの打撃成績上位にランクインし、盗塁もすでに6(5月30日現在)。球場に詰めかけた、栃木の、そしてロッテ、阪神時代のレプリカユニフォームを身につけたファンの熱い声援に応える活躍を見せている。
同じチームでNPBからのオファーを待った村田修一は、夢叶わず昨年限りで引退した。しかし、これまでにも正田樹(日本ハム―阪神―新潟―ヤクルト)など、独立リーグからNPBに復帰した選手はいる。DeNAを戦力外通告となったあと、愛媛(四国アイランドリーグplus)を経て、昨年9月、DeNAに復帰を果たした古村徹が話題となったのは記憶に新しいところだ。
西岡はまだ34歳。コンディションさえ整えばまだやれると多くのファンも信じているはずだ。これまで何度も苦難を乗り越えてきた男のチャレンジから目が離せない。