日本一監督・吉田義男
阪神の監督と聞いたら、まず浮かぶのが吉田義男ではないだろうか。第一次政権となった1975年から77年はそれぞれ3位、2位、4位、再就任した1985年には21年ぶりの優勝と球団初の日本一へ導いた。その後87年まで指揮をとり、暗黒期とされた1997年から98年にも3度目の監督を務めている。
選手時代は名ショートで「牛若丸」とも称された吉田。監督として最大の置き土産は、2003年に優勝した際、チームの原動力となった今岡誠、関本健太郎、浜中治、井川慶の育成と、中日から矢野輝弘を獲得したことだろう。
今岡は1999年から監督に就任した野村には冷遇されたものの、2002年から監督となった星野のもとで開花した。そう考えると、吉田には先見の明があったと言えるのかもしれない。
ID野球・野村克也
現役時代に戦後初の三冠王に輝き、歴代2位の通算本塁打数の記録をもつ野村克也。ヤクルトスワローズで監督を務めた9年間には、4度のリーグ優勝と3度の日本一に導いた。
1999年に三顧の礼をもってタイガースの指揮官として迎え入れられたものの、球団史上初となる3年連続最下位に終わり、成果を上げることができなかった。また、当時からOB会の力が強くフロントが首尾一貫した方針を打ち出せないなど、球団側の問題もあり、戦う集団になるまで至らなかったとも考えられる。野村はそういった “球団の膿”を出し切った監督といえる。
夜明けはもうすぐ・安藤統男
1982年から84年まで指揮をとった安藤統男。その間成績は3位、4位、4位だったが、1985年から始まる第二次吉田政権の初年度に球団初となる日本一になっていることから、何かしら安藤の置き土産があると考えられる。
安藤が現役の頃、ある選手の父親から人づてに相談があった。これをきっかけに秋季キャンプに参加した選手は当時の監督・金田正泰の目にかない、1973年のドラフト6位で阪神に入団する。そして、安藤が監督に就任すると開花した。これは掛布雅之のことだ。また、後の三冠王ランディ・バースが入団したのも安藤政権の頃だった。
敏腕GM・中村勝弘
現役を引退した翌年の1983年から阪神の二軍監督に就任し、86年にはウェスタン・リーグでリーグ優勝を成し遂げた中村勝弘。87年に二軍監督を退任した後、90年から5年半(球団史上最長)、一軍監督を務めた。
政権3年目に新庄剛志や亀山勉、久慈照嘉といった若手選手や、オマリー、パチョレックなど助っ人外国人選手の活躍もあり、“リーグ優勝まであと一歩”というところまで善戦させた。
阪神の監督退任後はオリックスのGMとして辣腕をふるい、その後再びGMとして阪神に迎えられた。真弓や和田政権のもと、多数獲得した育成型の選手が現在台頭してきている。
闘将・星野仙一
「勝ちたいんや」を合言葉とし喝を入れ、関西で絶大な人気を誇り、能力ある選手が揃いながらも優勝を手に入れることができなかった阪神タイガースを戦闘集団へと生まれ変わらせた星野仙一。
星野の最大のファインプレーは、2002年のオフに広島からFAで金本知憲を獲得したことだろう。骨折しても試合に出続け、片手でヒットを打つその姿にチームの誰もが感銘を受けた。このFAがなければ、金本が阪神の監督に就任することもなかったのかもしれない。