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【球史に名を残した偉人達】トミー・ジョンから復活・桑田真澄選手

2017 4/12 20:20cut
野球ボール,ⒸShutterstock.com
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Photo by Evgenii Matrosov/Shutterstock.com

進学表明からの巨人入団

桑田真澄選手はPL学園高校で2度の全国制覇を達成。甲子園に5季連続出場、20勝3敗、6本塁打と投打に渡る活躍を見せていた。ドラフトでは注目の選手となったが、早稲田大学進学を表明。各球団ともに桑田選手への指名を回避したのだ。しかし、巨人が強行で桑田選手を指名。入団拒否も噂されたが入団したことにより巨人と桑田選手の間に密約があったとも噂されている。
桑田選手は密約を否定しているが真相はわからない。PL学園時代にチームメートとして一緒に戦った清原和博選手は巨人入りを熱望していたにも関わらず、自分ではなく桑田選手が巨人から1位指名を受け入団に至ったことで、悔し涙を流す。
桑田選手は巨人入団後1年目から先発投手として起用され15試合に登板。2勝1敗、防御率5.14の成績を残した。高卒一年目でこれだけのチャンスを与えられるのは期待の裏返しでもある。2年目は先発ローテーションに定着し15勝を挙げ、以降、6年連続で二桁勝利を挙げるなど順調に巨人の柱へと成長をしていった。入団当初は野手への転向を勧められることもあったが、この頃にはそういった声も聞かれなくなっている。
成績面では順風満帆だった桑田選手だが裏金、野球賭博常習者との関係などを暴露され、1990年に登板禁止1ヶ月の処分を受けている。このスキャンダルは社会問題としても取り上げられ世間を賑わせた。しかし、桑田選手は謹慎のあった1990年にも14勝7敗、防御率2.51の成績を残し、野球面で見返すことに成功したのだ。

復活を賭けてトミー・ジョン手術

1995年6月15日の阪神戦で桑田選手の野球人生を大きく左右する出来事が起きた。試合中に小フライを取るためにダイビングキャッチをし右ヒジを強打。このときに側副靭帯(じんたい)断裂という大ケガを負っていたのだ。
桑田選手は靭帯を移植し修復するトミー・ジョン手術を受ける決意をし渡米する。現在は日米ともにトミー・ジョン手術は一般的となっているが、当時は例が少なく日本では村田兆治選手、荒木大輔選手が目立つ程度とあまり知られていない手術だったのだ。
桑田選手の執刀を行ったのは村田選手と同じフランク・ジョーブ博士だった。術後の苦しいリハビリを乗り越え、桑田選手は1年以上の時を経て、1997年開幕直後に東京ドームのマウンドへ帰ってくる。
その初登板時に桑田選手はマウンド上でヒザをつけプレートに右ヒジを置くシーンは翌日の新聞や報道で大きく取り上げられ、現在でも象徴的なシーンとして目にすることも多くなっている。

古武術を取り入れる柔軟性

桑田選手はトミー・ジョン手術から戻ってきた1997年に10勝を挙げ、翌1998年には16勝5敗、勝率.762で最高勝率のタイトルを獲得した。しかし、手術前のような試合を支配する投球は薄れており先発ローテーションから外れ中継ぎに回る機会も増えてきた。
防御率も1998年から4年連続で4点台と桑田選手にとっては不本意な成績となっていたのだ。そのような状況の中で迎えた2002年。桑田選手は復活を遂げた。8年ぶりの防御率2点台となる2.22で最優秀防御率のタイトルを獲得。12勝を挙げチームの優勝に大きく貢献する。
この年の桑田選手は前年オフから古武術を取り入れており、その成果が出たのだ。桑田選手は「自身の衰えやアメリカのトレーニングに対する疑問などがあり古武術を取り入れようという考えに至った。大きな手術を経験し肉体的なピークは過ぎていたからこそ新たな取組を素直に受け入れられた」といった内容のことを語っている。
この受け入れる心が復活に繋がったと言えそうだ。

メジャーリーグ挑戦

2002年に復活を果たした桑田選手だがその後、不調もあり満足のいく成績を残すことができない。2005年には0勝7敗、防御率7.25と完全に盛りの過ぎた選手となってしまう。
しかし、桑田選手は諦めない。2006年オフにメジャーリーグ移籍を発表。巨人での引退試合は無いままにセレモニーだけがファン感謝デーで行われた。
全盛期の過ぎた桑田選手と契約するメジャーリーグの球団があるのか注目が集まったが、予想よりも早い12月中にピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結ぶ。
パイレーツに日本人選手が所属するのは初めてのことだった。マイナー契約となった桑田選手はメジャー昇格を目指し2月のスプリングトレーニングへ招待選手として参加。順調に調整、アピールを行っていたがオープン戦で負傷。開幕メジャー入りとはならなかった。通常であればこの時点で解雇されることも多いメジャーリーグの世界だが桑田選手はチームに残ることができ、リハビリを行う。
5月から実戦登板を始め6月には念願のメジャー昇格を果たす。初めての登板はニューヨーク・ヤンキース戦だった。メジャーデビュー戦は2回を投げ被安打1、2失点と結果を残すことはできなかった。この試合ではかつてのチームメートである松井秀喜選手とも対戦しており四球を与えている。 以降、8月半ばまでメジャーでプレーし19試合に登板。勝ち星こそ挙げられなかったが3Hの記録を残している。 2008年もマイナー契約でパイレーツのスプリングトレーニングに招待選手として参加するが、メジャー昇格はならず帰国し現役を引退する。

引退後の活動

桑田選手は1986年に巨人に入団してから2007年にパイレーツで引退するまで22年間で442試合に登板173勝という成績を残している。巨人で残した173勝は球団史上7位となっており投球回数2761.2回は中尾輝三選手、堀内恒夫選手、別所毅彦選手といったレジェンド投手に次ぐ球団史上4位の記録だ。
これらの輝かしい記録を誇りながら引退後にプロ野球のコーチ、監督には就いていない。評論家、解説者としての仕事を行いながら早稲田大学大学院を主席で修了。東京大学野球の特別コーチを務めるなどプロ野球外の活動を主に行っている。
解説での話しぶりを聞くと理論派な一面が強く現在のプロ野球監督、コーチとは一線を引く形がうかがえる。今後、将来的にプロ野球のコーチ、監督へ就任することはあるのか気になるところだ。 桑田監督が誕生したら見に行きたいという野球ファンも多いのではないだろうか。今後の桑田選手の動向に注目が集まる。