金メダルを取るまで時間がかかった日本人
今でこそ日本は世界の中でも有数のスポーツ国家として知られている。陸上や体操、レスリングや水泳といったさまざまなオリンピック競技においてメダルを取っており、世界的な選手も数々輩出している。しかしながら、このようなスポーツ国家になるまでに相当長い道のりを経なくてはならなかった。
近代オリンピックが始まったのは1896年。古代ギリシャからの伝統を受けて再開されたスポーツの祭典には、欧米各国の有力選手が参加していた。しかし、第一回のアテネには日本人はエントリーすらしていなかった。明治維新から30年ほど経っていたが、日本はいまだ国際社会の仲間入りを果たしたばかりにすぎない存在だった。
日本人がオリンピックに初めて出場したのは、1912年のストックホルム大会だった。その後、1920年のアントワープオリンピックでテニスの熊谷一彌が銀メダルを獲得したが、金メダルはなかなか獲得できなかった。そして、1928年になってようやく日本に金メダルをもたらしたのが、織田幹雄だった。
スポーツ万能だった織田幹雄
織田幹雄は1905年に広島に生まれ、子供の頃から運動が得意だった。小学校時代からかけっこで周りの子供に圧倒的な差をつけてゴールしていたほか、中学生になってからはマラソンでも活躍するようになった。とはいえ、陸上競技は日本においてポピュラーなスポーツではなかったため、織田はサッカー部に入る。
そんな織田が本格的に陸上にのめりこむようになったのは、中学3年のとき。地元に野口源三郎という、オリンピックにも出たことのある陸上選手がやってきて、その人の前で走り高跳びを披露したところ、陸上の才能があると褒められたのだった。
それに気をよくした織田は独学で陸上競技を学び、大阪で開かれる全国大会にエントリーした。当時の陸上の全国大会は、今のように各地で予選が行われるわけではなく、学生が志願して参加するのが一般的。広島から大阪に行くまでの旅費は高額だったが、校長に直談判したところ必ず勝ってこい、と言われて旅費を出してもらえたという。
結果、織田は走り高跳びと走り幅跳びで優勝し、全国に名前を轟かすこととなった。
誰も予想していなかった織田の金メダル
大学に進学した織田は、新たに三段跳びに取り組むようになった。この「三段跳び」という言葉は、織田が「ホップステップジャンブ」をもっとシンプルに訳せないかと考えた末に編み出した訳語とされている。
それくらい日本の陸上界に影響を持つ織田だったが、世界的には無名。アムステルダムオリンピックに参加はしたものの、誰も織田がメダルを取るとは予想していなかった。オリンピックの慣行として、表彰式の際にはメダルを取った選手の国の旗が掲げられるが、日本の旗は用意されていなかった。
そんな前評判を跳ねのけ、織田は見事三段跳びで金メダルを獲得。大会役員は困惑し、用意していなかった日本の旗をどう調達するか焦りだす。そこで織田は自ら持ってきた国旗を係員に渡し、これを掲げてくれ、と頼んだ。
持ってきた旗はほかの国の旗よりも大きなもので、国歌斉唱の際には日本の旗だけが大きく見えるアンバランスな光景が展開された。
しかしながら、世界に日本を盛大にアピールできたことは、織田にとってきっと誇りだっただろう。織田はその後も日本陸上界の神様として崇められ、1998年に死去した。