2019年4月24日、名指導者・小出義雄氏が逝去
平成という時代があと数日で終わるという時に、平成を代表する指導者が逝った。
2019年4月24日、マラソン指導者の小出義雄氏が亡くなった。享年80歳。2000年シドニー五輪で日本マラソン史上初の五輪金メダリストとなった高橋尚子を指導し、その二人三脚ぶりで有名になった。
豪放磊落。ヒゲがトレードマークで、いつもガハハと大きな声で笑う。酒を好み、誰隔てなく、話しかける。いつも彼の周りには人が集まった。
筆者はそんな小出氏の性格に救われた。取材でお世話になったのは小出氏が「超」が付くぐらい有名になってからなのに、昔から知っていたかのように仲良く話してくれる。米国の合宿所にお邪魔したときも嫌な顔を一つもせず、取材に協力していただいた。
平成の時代、小出氏はその明るいキャラクターとともに、日本の女子マラソン界に輝かしい歴史を残した。改めて、小出氏が成し遂げた偉業について振り返ろうと思う。
女子マラソンの時代到来を予感
千葉県出身。地元の山武農業高校を卒業後は家業の農業に従事していたが、箱根駅伝が走りたくて、22歳で順天堂大へ入学。指導者になる前の経歴からして異色である。
大学卒業後に実業団の指導者になったわけではなく、最初は千葉県内の公立高校の教師になっている。
小出氏の功績の一つは、女子マラソンにいち早く目を向けたということであろう。
女子マラソンが五輪の正式種目になったのは1984年ロサンゼルス五輪から。だが、小出氏は佐倉高校の教師だった1982年に、自身の教え子である女子選手をマラソンに出場させ、日本歴代2位のタイムをマークさせている。
この大会には同じ千葉県内の成田高校から、後の五輪代表となる増田明美が出場し、日本最高をマークしたことから、小出氏とその教え子が注目されることはなかった。だが、まだ、女子マラソンが脚光を浴びる前から、「女子マラソンなら世界で勝負できる」と考え、女子選手にあった練習方法を考えていたという。
女子マラソン初の五輪メダリストを育てる
その後、市船橋高監督時の1986年には全国高校駅伝で男子を優勝に導き、1988年に実業団のリクルートの監督に就任する。
そして、元号が平成に変わって最初の夏季五輪となった1992年バルセロナ五輪で最初の大きな偉業を成し遂げる。女子マラソンで教え子の有森裕子が、この種目で日本選手初の五輪メダルとなる銀メダルを獲得した。
小出氏が何よりすごいのが、その眼力である。有森は日体大時代にたいした記録を出していない。無名の存在だった。でも、有森のコツコツと努力できる才能を見抜き、メダリストへと育て上げた。決してスピードのある選手ではなかったが、長い距離への耐性やメンタルの強さがあった。それを小出氏は伸ばした。
その後も1990年代の女子マラソンは小出氏の時代だった。教え子たちが次々にメダルを獲得する。1996年アトランタ五輪で有森が銅メダルを獲得。その翌年は世界選手権で鈴木博美が金メダルに輝いた。そして、2000年シドニー五輪での高橋の金メダルへとつながっていく。
指導者として女子マラソンに初のメダルをもたらしたのが小出氏なら、複数メダルを獲得したのも小出氏だけである。世界選手権、五輪の両方の金メダリストを育て上げたのも小出氏だけ。それだけを見ても、小出氏の偉大さがわかる。
指導法も小出氏ならではだった。誰にでも同じ練習をさせるのではなく、ひとり一人の特性を見いだし、その選手にあった練習をさせる。時にはマンツーマンで選手の状況を把握する。
かつて、有森と鈴木に話を聞いたときに、「Q(高橋)があれだけ(小出)監督を独占できれば強くなるはず」と言っていた。それだけ、選手からもその指導力が認められていたことがわかる。
女子マラソンを楽しいスポーツに
持ち前のキャラクターで、女子マラソンという苦しいスポーツを明るいスポーツに変えたのも小出氏の功績だろう。
42.195キロを争うマラソンは過酷である。小出氏以前のマラソンは「耐える」「修行」というイメージがつきまとったが、小出氏はこういった概念を吹き飛ばした。
「スポーツは楽しみながら限界に挑む」が持論だった。
日本のスポーツの指導には根性論のようなものがいまだにあるが、小出氏はそういったものとは無縁だった。選手を罵倒しない。逆にこれでもか、というぐらい褒める。高橋に対して、「いいねえ、いいねえ」と繰り返していたのが思い出されるが、ほかの選手にもそれは同様だった。
筆者が米国の合宿所にお邪魔したとき、若い選手を呼び、「この子はねえ、すごい選手になりますよ」と言って、選手のやる気を出させていた。その選手の名は新谷仁美。その後、トラック種目で五輪に出場することになる。この褒めて育てるのが、小出氏の特長だった。
晩年は病気に苦しみ、なかなかいい選手を育てられなかった。だが、小出氏の残した輝かしい実績は色あせない。
筆者の記憶が正しければ、米国での合宿所の小出氏の部屋には「男はつらいよ」のDVDが並んでいたはず。「人情」という言葉がぴったりの名伯楽が東京五輪を前に旅立ってしまったのは寂しい限りである。