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福島県、実は長距離王国なんです ~名ランナーの系譜①~

2019 2/2 15:00鰐淵恭市
佐藤敦之,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

都道府県対抗男子駅伝で初優勝

1月20日に広島市を舞台に行われた都道府県対抗男子駅伝。中学生から社会人までが都道府県ごとにチームを組み、ふるさとのために走るこの大会で、福島県が初優勝した。24回の歴史を数える大会で東北勢が優勝するのは初めてのことだ。

福島県は高校駅伝で優勝した高校はないものの、名ランナーを生み出す「長距離王国」として知られてきた。福島県出身で世に名をとどろかせたランナーを振り返ってみよう。

東京五輪のヒーロー、円谷幸吉

長距離王国・福島を語る上で絶対に外すことができないランナーは、1964年の東京五輪で最も人々の心に残ったアスリートでもある。男子マラソン銅メダリストの円谷幸吉だ。

円谷の人生は栄光と挫折で語られる。初めての日本開催となる五輪に、花形種目であるマラソンで出場した円谷は、当時24歳の陸上自衛官だった。彼は2番手でゴールのある国立競技場のマラソンゲートに入ってきて、観衆の声援を一斉に浴びた。残り200メートルで英国のバジル・ヒートリーに抜かれたものの、銅メダルを獲得。円谷は東京五輪で国立競技場に初めて日の丸を揚げた。

五輪のマラソン代表は3人だった。円谷は2万メートルの世界記録を更新するなどスピードはあったが、マラソンの自己記録は3人の中で一番遅く、最も期待が薄かった。その下馬評を覆す走りで、円谷は一躍英雄となった。

4年後のメキシコ五輪では表彰台のさらなる高みへと期待されたが、腰痛などに苦しみ、思うように走れない日々が続いた。そして、メキシコ五輪を前にした1968年1月、27歳の円谷はカミソリで頸動脈を切る。遺体が見つかった体育学校の自室にあった遺書はあまりにも有名だ。

 「父上様 母上様 三日とろゝ美味(おい)しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。

 敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。(中略)

 父上様 母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」

現在、円谷の偉業を記念して、ふるさとの福島県須賀川市では毎年秋にマラソン大会が開かれている。

マラソンで日本最高記録、藤田敦史

1990年代後半から2000年代前半にかけて活躍し、マラソンの日本最高記録(当時)も樹立した藤田敦史は福島県白河市出身だ。

清陵情報高校から駒沢大に進み、学生駅伝で活躍。箱根駅伝には1年生の時から出場し、4年生の時には当時の4区の区間記録を更新した。大学在籍中に箱根駅伝での優勝はならなかったが、後に常勝軍団となる駒沢大の礎を築いた。

マラソンでは大学4年の時にびわ湖毎日マラソンに出場。2時間10分7秒で走り、瀬古利彦の持っていた学生最高記録を更新した。藤田のハイライトは2000年の福岡国際マラソン。駒沢大から実業団の富士通に進んでいた藤田はこの大会で、2時間6分51秒で優勝する。日本最高記録保持者(当時)になった瞬間だった。

世界選手権には2度出場。五輪での活躍も期待された藤田だったが、ケガなどもあって、五輪に出場することは一度もなかった。現在は、母校駒沢大のコーチとして、後進の指導にあたっている。

「修行僧」と呼ばれた佐藤敦之

2000年代にマラソンで活躍し、2008年北京五輪にも出場した佐藤敦之(あつし)も福島県出身だ。

会津高校から早大に進んで、学生駅伝で活躍。3年時にはびわ湖毎日マラソンを当時の学生最高記録となる2時間9分50秒で走った。4年生の時には駅伝での活躍が期待されたが、オーバートレーニングのため、箱根駅伝には出場できなかった。

大学卒業後は実業団の強豪・中国電力に就職。佐藤とともに「中電三羽烏」と呼ばれた尾方剛、油谷繁と2003年世界選手権に出場し、団体金メダルに貢献した。

学生時代から競技に対してストイックな姿勢で知られ、「修行僧」とも呼ばれた。練習での強さは群を抜き、日本記録の更新も期待されたが、なかなか結果が出せずに苦しむ時期が続いた。ようやく花が開いたのは、2007年の福岡国際マラソン。当時の日本歴代4位となる2時間7分13秒で走り、北京五輪の代表権を手に入れた。ただ、北京五輪では完走者中では最下位となる76位に終わった。

現在は実業団女子の京セラの監督として、選手の育成にあたっている。