戦後日本復興の象徴となった国立霞ヶ丘競技場の誕生
1945年、第二次世界大戦終結後の日本は疲弊しきっていた。一刻も早い戦後復興が課題となっていたが、その象徴になり得るべき存在が「平和の祭典」であるオリンピックだったのだ。
日本にオリンピックを招致すべく、実績を作る必要のあった関係者は、1958年の第3回アジア競技大会で国際的なアピールをするため、東京・青山の明治神宮外苑競技場の跡地に大規模な陸上競技用スタジアムを急ピッチで建設した。このスタジアムは大会本番2ヶ月前に完成し、それが当時アジア最大規模となる「国立霞ヶ丘競技場」だったのだ。
東京オリンピック成功を機に「聖地」と化した国立霞ヶ丘競技場
思惑通りアジア競技大会は大成功をおさめ、1964年「東京オリンピック」の招致にもつながる。そのオープニングで7万人の大観衆が見守る中、聖火台に火がともった。この模様はオリンピック史上初めて全世界に衛星中継され、まさにこの瞬間、世界中に「日本復興」をアピールする聖地となったのだ。
実際の競技でも、当時「マラソン史上最強」とうたわれたエチオピア出身のアベベ・ビキラ氏が当時の世界記録で優勝したり、「褐色のスプリンター」と称されたボブ・ヘイズ氏が100mを10秒ジャストというやはり当時の世界タイ記録で金メダルを獲得するなど、全世界を熱狂の渦に巻き込んだ。
オリンピック後も聖地として輝き続けた国立霞ヶ丘競技場
「復興日本」を力強くアピールした東京オリンピック終了後は、サッカーやラグビーの聖地としてグラウンドが使用されたり、歌手のコンサート会場にも使われたりした。スタジアム近辺にはトレーニングセンターも併設され、日本全国の運動施設のモデルにもなったのだ。
陸上競技もビッグイベントが相次いで開催されたが、特に1991年の世界陸上では、100メートル走においてアメリカのカール・ルイス氏が当時の世界記録9秒86を樹立したり、マラソンで日本人選手が男子金、女子銀を獲得するなど大いに盛り上がった。
そして伝説へ。聖地の終焉と新世代競技場の誕生。
完成から50年以上、常に人々の記憶に残るドラマを演出し続けた国立霞ヶ丘競技場だが、徐々に老朽化が目立っていく。大きなスポーツ大会のメインスタジアムとして使用が敬遠されるようになり、解体が現実味を帯びてきた。そして決定的な出来事となったのが、2020年東京オリンピックの開催決定だったのだ。
世界に誇るメインスタジアムを披露しようと計画されたのが、「聖地」を完全解体して跡地に「新国立競技場」を建設することだった。工事は速やかに進み、2015年に惜しまれつつもついに国立霞ヶ丘競技場は跡形もなくなった。しかし、来たる2020年に向けて建設される「新国立競技場」において、また新たなる伝説が生み出されることだろう。
国立霞ヶ丘競技場周辺のおすすめスポットを紹介
多くの歴史を残してきた国立霞ヶ丘競技場の周辺には、かつての陸上競技の聖地らしく、さまざまなスポーツ関係の観光スポットがある。
まずは、プロ野球の東京ヤクルトスワローズが本拠地とする明治神宮野球場だ。プロ野球や六大学野球、さらに夏場には花火大会も開催され、常に賑わいを見せている。ほかには、東京体育館がある。バレーボールやフィギュアスケート、卓球などの主要国際大会が開催されており、熱戦が繰り広げられている。
スポーツ施設以外では、明治神宮があり、毎年初詣の時期には日本一の参拝客数を誇っている。
まとめ
以上見てきたように、国立霞ヶ丘競技場は陸上競技やその他のスポーツの聖地として、戦後日本の歴史を彩ってきた。
2020年東京オリンピックを機に新国立競技場として生まれ変わるが、周辺の観光スポットともども、ますます多くのお客さんで賑わうことが容易に想像できるのではないだろうか。