川内優輝選手のおいたちから市民ランナーまでの道のり
1987年3月に3人兄弟の長男として生まれ、埼玉の名門春日部東高等学校をへて学習院大学法学部政治学科へ進んだ。高校では県大会レベルの選手として走っていて故障も多かったようだが、大学で津田誠一監督に出会った事により、ポイント練習法を身に付けた。これはのちに市民ランナーの間で川内メソッドと呼ばれている。
また、学習院大学史上初の箱根路を走った在学生となり、関東学連選抜として2007年と2009年の2度出場している。いずれも6区を任され、2009年は区間3位の成績だった。さらに2008年にはニューカレドニア国際マラソンでハーフマラソン優勝を果たしている。
初のフルマラソン出場は2009年2月の「別府大分毎日マラソン」で、3月の「東京マラソン」にも出場している。2009年4月埼玉県庁に入庁し、市民ランナーとしての活躍をスタートさせた。
最強市民ランナー、川内優輝選手の主な戦績(1)~2012まで
就職後は12月福岡国際マラソン13位を皮切りに、2010年2月東京マラソン4位、12月2度目の福岡国際マラソン10位の成績だった。2011年2月に東京マラソンで3位に入り、自身初のサブテン記録も達成。9月は「世界陸上大邱大会」に出場、団体戦銀メダルを獲得した。そして10月大阪マラソンは4位、12月福岡国際マラソンでは3位に入り、2度目のサブテンを達成。さらに2週間後の防府読売マラソンにも出場し、2位。フルマラソン初優勝を飾ったのは、2012年4月の「かすみがうらマラソン」だ。
その後、12月防府読売マラソンまでに計5回優勝した。他にも焼津ハーフマラソン、隠岐の島ウルトラマラソンで優勝。2012年は年間9本のフルマラソンと、8本のハーフマラソンなどへ出場した。
最強市民ランナー、川内優輝選手の主な戦績(2)~2016年まで
2013年は1月のエジプト国際マラソンから、7月のゴールドコーストマラソン迄で10度目のフルマラソン優勝、8月は「世界陸上モスクワ大会」へ出場した。12月1日の「福岡国際マラソン」と15日の「防府読売マラソン」に於いては、中13日2大会連続サブテンを達成。2014年も2月熊本城マラソンから、12月防府読売マラソンまで優勝を果たし、優勝回数17回、サブテン達成計8回だ。2015年に入っても1月のいぶすき菜の花マラソンから、10月いわて北上マラソンで優勝を重ねた。
そして、2016年4月の「チューリッヒマラソン」優勝で、フルマラソン優勝回数が総計24回となった。さらに、12月の「福岡国際マラソン」では、日本人で最多となる驚異のサブテン10度目を達成した。
川内優輝選手が与えた影響 ~もうこんな選手は出ないといわれる訳 ~
多くのレースへ出るという究極の練習方法により、2011年は年間10本、2012年は年間17本、2013年には11本のフルマラソンを含めて、年間31本も走っている。通常、実業団選手のフルマラソン出場は年2回ほど、それに対し川内選手は2014年、2015年もフルマラソンだけで年間13本、ハーフマラソンも含めると年間36本以上走っている。
故障が多いマラソン選手の中、市民ランナーがこれだけのレースに出場し、さらに実業団選手を抑えて上位に入るなどの結果を出した事で、マラソン業界にも大きな影響を与えてきた。多いと月5本の大会に出ており、特に12月は中13日ほどでフルマラソン2本、さらにハーフマラソンにも出場している。
市民ランナーの星 川内優輝選手が感動をくれる!
どんな厳しい状況でも諦めないで走るその姿は、多くのランナーたちに勇気をあたえてきた。
ゴール直後に意識朦朧の状態で倒れ込む事態について、100%近く力を出して走らないと勝負にならないから、と答えている。2016年の福岡国際マラソンでは、右ふくらはぎと左足首捻挫の怪我を負いながらも強行出場。サブテン2時間9分台を叩き出し、総合3位の日本人首位でゴールし、男泣きする姿が印象的だった。
ゲストランナーとして招待を受ける事も多く、受けた以上は調子が悪くても絶対に欠場しない、一般ランナーにしっかりした走りを見せるというポリシーを持っている。記録は付かないながらも全力疾走し1位でのゴールも多くある。出身地久喜市での2016年マラソン大会には、紺スーツ、ネクタイ、サングラスで参加し、盛り上げた。
まとめ
川内選手の主な戦績やエピソードを紹介した。2013年には応援キャラクター、朝比奈まいもお披露目されており、久喜市ホームページには川内優輝選手の情報コーナーが作られている。実業団に属さず有給を取って試合参加するという、唯一無二の最強市民ランナー川内選手、これからもずっと応援したい。