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世界を席巻する長距離王国 ケニアに行ってみた(2)

2017 3/28 20:13きょういち
ケニア
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助っ人の宝庫、赤道の街「ニャフルル」

 ケニアの首都ナイロビから北西へ約200キロ。シマウマのいるサバンナ地帯を車で4時間ほど走ると、日本で活躍した多くのケニア人ランナーが生まれた街にたどり着きます。

その名は「ニャフルル」。

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▲ナイロビを少し離れるとサバンナに。シマウマがあちらこちらに見られる


 赤道直下の街で、人口は3万人弱。紅茶の産地だそうです。赤道直下と言っても、標高は2000メートルを超えているので、日差しの割りに過ごしやすいという印象でした。

 長距離を走るに適していると言われる、キクユ族という部族が住む街。高地にあるので、暮らしながらに高地トレーニングをしているようなもの。そんな環境が数々の名ランナーを生み出したゆえんかもしれません。
 エリック・ワイナイナ、サムエル・ワンジルという歴代の五輪メダリストもこの街出身です。

 ちなみにニャフルルの近くには、変わったお店がありました。赤道の真下にあるという店です。その店からちょっとでも北に行けば北半球、南に行けば南半球になります。で、北半球と南半球では水が渦を巻いて流れる際の渦が逆になるというのです。

 それを実験して見せてくれたのがこの店。赤道真下でやると渦を巻かずにそのまま水が流れ落ちるというのも見ました。赤道に来たという証明書がもらえる店でしたが、筆者は遠慮してその場を立ち去りました。

助っ人は実業家へと転身する

 ニャフルルは治安がそこまで悪くなく、日本人が昼間に1人で歩いていても、問題はありませんでした。ただ、日本人は珍しいのでみんなの注目を浴びます。当時、ニャフルルに暮らしていた日本人は1人だったということです。

 街を歩いていると、「こんにちは」と日本語で話しかけられました。商店を経営しているケニア人でした。

 話を聞くと、彼も日本の実業団で走っていたランナー。引退後は故郷に帰り、プロパンガスの店を開いていました。

 これが彼らが日本に行く大きな理由です。
 ランナーとして大成功すれば最高ですが、そうでなくても、毎月決まった給料がもらえる日本の実業団は魅力的です。お金をためて、故郷で事業を始めるというのが一つの流れです。

 宮城・仙台育英高校、流通経済大学、ヤクルトで活躍したダニエル・ジェンガもニャフルル出身。現役で時代から故郷でショッピングセンターつきのホテルを経営していました。

 そんな日本から戻ってきたランナーは、貧困から脱したいと思っている子どもたちにはまぶしく映ります。かつては、ワキウリやワイナイナに憧れた少年が日本へ渡り、今はワンジルに憧れた少年が大人となって日本の実業団で活躍しています。

夜明け前から通学を始める子どもたち

 ケニア人がなぜ速いのか。高地で生まれ育って心肺機能が発達している、膝下が長い上に細くて長距離に向いている、骨盤が前傾していて前方に楽に進む、など身体的な特長が挙げられますが、同様に言われ続けるのは「ハングリー精神」です。貧乏だから、金持ちになりたくて、必死に走る。ともすれば、偏見ともとれる見方ですが、実際はどうなのでしょうか。

 ケニア人初の五輪マラソン金メダリストのワンジルは、14歳まで靴が履けなかったといいます。両親が離婚し、狭いトウモロコシ畑から得られる収入はごくわずか。小さいころはボロボロのミニカーで遊んでいたと言います。8歳で走り始め、陸上クラブに通いましたが、お金が払えなくなり、クラブも小学校も辞めました。

 私がニャフルルを訪れた時のある朝。朝焼けの草原の向こうから子どもたちが歩いてくるのが見えます。みんな、歩いて登校しているのですが、その距離はとてつもなくあります。

 日本の人は「アフリカの子どもたちは何時間も歩いて学校に行く」と思いがちですが、実際にニャフルルで見た子どもたちはまさにその通りでした。2時間ぐらい歩く子もいるそうです。夜明け前から歩いてくる子もいるので、日の出とともに子どもたちが街に向かってくるのが見えるのです。ニャフルルの街のそばには、野生のカバが住んでいる池があるのですが、子どもたちはその池のそばを歩いて街にやってきていました。

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▲ニャフルルのそばには野生のカバが


 筆者が見た限り、どの子どもも靴は履いていました。ただ、ほとんどの子どもの靴はつま先がやぶれていました。日本ならとっくに捨てられている靴を、彼らは大切に履いています。

日本の校名が書かれたユニホームで走る選手たち

 ちなみに、日本の実業団で活躍する選手はユニホームや靴を故郷に持って帰って、これからの選手にあげるようです。

 ケニアの地方大会を見ると、そのユニホームに驚かされます。「仙台育英」と書かれたユニホームを着た選手が何人もいます。日本の実業団の名前が入ったものもありました。

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▲仙台育英高校のユニホームを着て走る地元の子ども。ほかにも「愛知」と書かれたユニホームを着ていた選手もいた


 そんな姿を見ると、ケニア人の持つ「ハングリー精神」は偏見ではないと思います。だからこそ、故郷で大きな家を建て、事業を興し、走るための用具も提供してくれる日本へ行ったランナーは憧れの的であり続けるのです。