ケニアの強さって何なの?
日本人が大好きな五輪競技と言えば、間違いなく挙げられるのがマラソン。
半世紀前の東京五輪では円谷幸吉が銅メダルを獲得し、ヒーローになりました。1984年ロサンゼルス五輪から正式種目となった女子マラソンでも日本人は大活躍。2000年シドニー五輪では高橋尚子、2004年アテネ五輪では野口みずきが金メダルをとりました。
ところが、人気とは裏腹に特に男子マラソンは日本と世界の差が広がるばかり。
世界記録はデニス・キメット(ケニア)の2時間2分57秒。2014年のベルリン・マラソンで出した記録です。一方、日本記録はと言えば、高岡寿成が2002年のシカゴ・マラソンでマークした2時間6分16秒で、2017年3月下旬現在で世界歴代86位。日本記録をマークした時は世界歴代4位でした。この15年での世界のマラソンのスピード化がすさまじいものだということがわかります。
近年の高速化を牽引しているのが、エチオピアと並ぶ長距離王国のケニアです。その一国、ケニアの強さが知りたくて、数年前に現地に行ってみました。
日本に渡るため、「選抜試験」を受ける子どもたち
東アフリカ最大の都市ケニアのナイロビ。高層ビルが立ち並び、大きなショッピングモールもあります。日本人がアフリカに対して固定観念で持っている草原、野生動物、といったものとは無縁の近代都市でした。
ケニアの選手は貧しさから抜け出すために、マラソンを走る・・・。そう聞いてはいましたが、ナイロビという街にはそういった雰囲気はありません。
ところがです。ある日のこと、ナイロビにある国立陸上競技場にワゴン車が到着しました。
車中には押し詰められた子どもたちがいました。降りてきた子どもに聞けばみんな中学生。彼らは、日本の高校への留学を「つかみ取る」ためにケニアの各地から集められた子どもたちでした。
▲日本への選抜試験を受ける中学生たち
ケニア人助っ人のルーツは1980年代にさかのぼる
今や、高校、大学、実業団のそれぞれのカテゴリーの駅伝で優勝を狙うなら、ケニア出身の「助っ人」の存在は欠かせません。今では日本のチームにケニア人がいることは当たり前になりましたが、ケニアが身近に感じられるようになったのは1980年代からでしょう。
当時の日本のヒーロー、瀬古利彦が所属するエスビー食品に1983年にやってきたのがダグラス・ワキウリ。ケニア人助っ人の元祖と言われ、1988年ソウル五輪男子マラソンで銀メダルを獲得しました。
ワキウリ以降も、「日本育ち」のケニア人ランナーがメダルを取りました。1996年アトランタ五輪銅メダル、2000年シドニー五輪銀メダルのエリック・ワイナイナもそう。コニカミノルタの助っ人としてやってきました。最初、日本に来たときの印象は「サムライがいると思ったら、いなかった」ということです。
2008年北京五輪ではサムエル・ワンジルがケニア初の男子マラソン金メダリストになります。ワンジルは宮城・仙台育英高校から実業団のトヨタ自動車九州に進み、栄光の階段を上がりました。
ケニアと日本の橋渡しをする人がいるんです
ワキウリもワイナイナもワンジルも、ある日本人を介して日本にやってきました。その名は小林俊一さん。日本の大手企業を辞めて40年ほど前にケニアに渡りました。ケニアの大統領ケニヤッタにちなみ、通称はケニヤッタ小林。
今でこそ小林さん以外の日本人も代理人として、日本にケニア選手を紹介しますが、元祖は小林さんです。小林さんが紹介したケニア人は50人を超えます。
話を戻しましょう。先ほど、車から降りてきた子どもたちは、小林さんの前で走ることになります。いわば、日本への切符をするための試験のようなレースです。
一攫千金を求める彼らの表情は必死でした。フィールドの芝生の部分には、日本では見られないような大きな野鳥がたたずんでいました。子どもの表情と野鳥ののどかさのコントラストが、不思議な雰囲気を醸し出していました。
▲子どもたちの命運を握る試験の会場では、野鳥がのどかにたたずんでいた
その足が資本の子どもたち
子どもたちは、ウォーミングアップすることなく、レースにのぞみました。距離は5000メートル。標高1800メートルもある高地のナイロビで、日本の高校のトップレベルに近いスピードで走っていました。
結局、そのレースで1位になった子は、日本行きの切符を手にできませんでした。腹痛のために途中で遅れた選手は、練習でみせていた能力の高さを変われ、「パスポートを用意しなさい」と言われていました。
その少年に話を聞くと、こう言いました。
「ワンジルのように金メダルをとって、お金を稼ぎたい」
小林さんは言います。
「彼らは2本の足が資本なんだよ」