ハーフマラソンの女王だった頃
野口みずきは1978年生まれ、三重県伊勢市出身のマラソン選手だ。中学に進学して陸上部に入部、高校時代のインターハイ出場を始め、高校、社会人と中、長距離競技で活躍する。1999年愛知県で毎年行われる犬山ハーフマラソンで優勝すると、10月にイタリアのパレルモで行われた世界ハーフマラソン選手権で2着に入る。
ここからはしばらくハーフマラソンの時代が続き、2000年、2001年世界選手権で4位、2001年、2003年、2006年と全日本実業団ハーフマラソンで優勝を飾っている。トラックの5000m、10000mにも出場はしていたが、ハーフマラソンに強く、ハーフの女王と呼ばれた。
初出場で初優勝を飾ったフルマラソン
2000年札幌国際ハーフマラソンに出場した野口は、2000年シドニーオリンピックの女子マラソンで優勝することになる高橋尚子と対戦して敗れている。
2001年陸上世界選手権エドモント大会10000mで13位に終わった野口は、世界との差を痛感、トラック競技には見切りをつけ高橋の後を追うべくフルマラソンへの挑戦を決意した。そして、翌2002年3月に行われた名古屋国際女子マラソンに出場する。結果は2時間25分35秒で優勝、2000年高橋の出した2時間22分19秒の大会記録には及ばなかったものの初マラソン、初優勝の快挙だった。
アテネオリンピックのマラソン代表に
野口みずきの2回目のフルマラソンは翌2003年1月に行われた大阪国際女子マラソンだった。このマラソンは快速マラソンとなり、千葉真子、坂本直子ら日本選手同士の優勝争いとなったが、結局野口が2時間21分18秒で優勝する。
このレースは世界選手権パリ大会の予選を兼ねており、野口は千葉、坂本らと2003年8月の世界選手権に出場、当時世界2位の記録を持っていたケニアのキャサリン・ヌレデバに優勝を譲るものの、2着でゴールし翌年のアテネオリンピックのマラソン代表に選出される。
過酷なレースを制して金メダル獲得
2004年アテネオリンピック女子マラソンは現地時間8月22日午後6時にスタートした。午後6時とはいえ30度を超す猛暑の中での過酷なレースになった。日本代表選手は野口、坂本に土佐礼子を加えた3名だ。外国勢ではケニアのヌレデバや2時間15分25秒の世界1位記録を持つイギリスのポーラ・ラドクリフなどが優勝争いに絡んでくると思われた。
しかし野口が仕掛けたロングスパートには誰も着いて来ることができない。ラドクリフは36Km付近でリタイア、後半追い込んで2位に入ったヌレデバもゴールに入ると同時に嘔吐してしまう。暑さと難コースで何人もの選手がリタイアする中、野口選手は見事に走りきる。2時間26分20秒の堂々たる優勝だった。
オリンピックへの挑戦、辞退から引退への道
アテネの後も野口の強さには陰りはなかった。翌2005年のベルリンマラソンに出場すると、2時間19分12秒の当時歴代3位の記録で優勝する。そして2008年北京オリンピックの代表選考レースとして、2007年11月18日の東京国際女子マラソンに出場すると、2時間21分37秒の好タイムで優勝、北京オリンピックの代表に選ばれる。
しかし野口は北京への出場は果たせなかった。度重なる脚の故障で出場辞退に追い込まれたのだ。次の2012年ロンドンオリンピックには選考会で落選、再起を期した2016年リオオリンピックでも選考会で落選すると、2016年4が14日引退を発表す。脚が壊れるまで続けることができたと、最後までやり遂げた満足感でいっぱいだったようだ。今後の進路はまだ決まっていないようだった。
まとめ
いかがだっただろうか。
女子マラソンで頂点を極め先ほど引退をした野口みずき選手について紹介した。
長い競技生活を続けてきたが、晩年は脚の故障に泣かされ、思うような成績は残せなかった。
それでも最後まで諦めずアテネからリオまでオリンピックに挑戦し続けた彼女の功績は、今後も若い世代の目標となるだろう。