二人は戦前の陸上選手
大江季雄選手と西田修平選手はともに陸上競技で、棒高跳びを得意としている選手だった。二人とも戦前の選手であり、ともにベルリンオリンピックに出場している。現時点では二人とも逝去されているが、今でも名前を知っている人が多い選手だ。その秘密は、二人の素晴らしいあるエピソードによるものだ。
まずは二人の生い立ちや記録を紹介する。
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歴代の陸上選手はどのような活躍をしたのだろうか? 戦前のオリンピックで活躍した大江季雄選手、西田修平選手のエピソードを紹介する。
大江季雄選手と西田修平選手はともに陸上競技で、棒高跳びを得意としている選手だった。二人とも戦前の選手であり、ともにベルリンオリンピックに出場している。現時点では二人とも逝去されているが、今でも名前を知っている人が多い選手だ。その秘密は、二人の素晴らしいあるエピソードによるものだ。
まずは二人の生い立ちや記録を紹介する。
大江選手は、1914年に京都府舞鶴市で生まれた。
子供のころから陸上競技に明け暮れており、1935年にブタペストで開催された学生を対象とした国際大会において、準優勝という快挙を打ち立てた。大江選手の躍進は止まらず、1936年に4m34cmを達成し、当時の日本記録を作りあげた。同じ年に開催されたベルリンオリンピックに日本代表として出場しており、その時に同じ代表として出場していた西田選手と戦って3位の記録となった。
西田選手は、1910年3月10日に、和歌山県東牟婁郡那智村に生まれた。
大江選手と同じく、幼少の頃より陸上競技に携わっており、巷では棒高跳びの名手として名をはせていた。また、早稲田大学の理工科に在学中に、ベルリンオリンピックの前のロサンゼルスオリンピックにおいて銀メダルを獲得するほどの実力を兼ね備えていた。ベルリンオリンピックで優勝はできなかったものの、銀メダルを獲得して凱旋を果たしている。
二人は陸上の棒高跳び競技において、ライバル同士であり切磋琢磨をしていた。
ベルリンオリンピックでも西田選手が銀メダル、大江選手が銅メダルだったが、実は二人の記録は同じだったのだ。ともに4m25cmの記録だったのだが、西田選手が1回目で成功、大江選手が2回目で成功ということでこのように順位が決定した。だが、西田選手は納得せずに大江選手を2位の表彰台にあげた。そして、帰国後に二人のメダルを二つに割って半分ずつ交換してくっつけたのだ。
二人はライバルだったのだが、とても仲が良かった。
この二人によって作られた銀銅メダルのエピソードはベルリンオリンピック後すぐには世間に知られることはなかったが、戦後、大江選手の遺品からメダルが見つかり、この事実が発覚した。その後、感動的なエピソードだということで、「友情のメダル」として道徳の本に載せられたこともある。
大江選手は、ベルリンオリンピック後に陸軍に召集されてしまい、フィリピンのルソン島にて27歳の若さで戦死してしまう。西田選手は引退後、審判や監督として陸上界に残り最終的には日本陸上競技連盟の理事長になった。
戦前のオリンピックにおいて感動的な逸話を残した陸上棒高跳び選手である、大江季雄選手と西田修平選手について紹介した。二人はそれぞれのメダルを半分にしてお互いを讃え合う、非常に良いライバルであり友であったのだ。