金栗四三の陸上への愛が「箱根駅伝」を生み出した
今やすっかりお正月の風物詩となっている「箱根駅伝」。その生みの親といわれるのが金栗四三だ。箱根駅伝の最優秀選手賞に「金栗四三賞」として名を残している。
オリンピックにマラソン選手として3度オリンピックに出場した金栗は、1920年(大正9年)に行われた第1回箱根駅伝の開催に尽力。東京高等師範学校(現・筑波大学)、明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学の4校での開催を実現した。
今やすっかりお正月の風物詩となっている「箱根駅伝」。その生みの親といわれるのが金栗四三だ。箱根駅伝の最優秀選手賞に「金栗四三賞」として名を残している。
オリンピックにマラソン選手として3度オリンピックに出場した金栗は、1920年(大正9年)に行われた第1回箱根駅伝の開催に尽力。東京高等師範学校(現・筑波大学)、明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学の4校での開催を実現した。
1964年東京オリンピックで銅メダルを獲得した円谷幸吉も日本陸上界の偉人のひとり。元々はトラックの選手だったが日本陸上界の父・織田幹雄の勧めでマラソンに挑戦し、初マラソンから7ヶ月でオリンピックに出場。結果は、ゴール前の国立競技場で後続の選手に抜かれ3着で銅メダルを獲得。
4年後のメキシコシティオリンピックを目指したが、開催年の1968年に自殺。27歳で生涯を終えた。
円谷の出場が叶わなかった1968年のメキシコシティオリンピックには、ライバルであった君原健二が東京オリンピックに続き2度目の出場。ゴール前の競技場で3位の選手に迫られるも、2着を死守し銀メダルを獲得。いつもはレース中に後ろなど振り向かないのだが、このときに限って後ろを振り向いた君原は「円谷君の『陰の声』が振り返らせたのかもしれない」と考えているそうだ。
その後1973年に引退。出場した35レース全てを完走するという鉄人ぶりを見せた。
鉄人といえば、1970年代から80年代にかけてハンマー投げで日本の第一人者として活躍した「アジアの鉄人」こと室伏重信が思い出される。室伏広治と由佳の父としても知られる重信は、日本選手権の優勝12回、アジア大会5連覇、オリンピック4回出場とまさに「鉄人」の名にふさわしい活躍を見せてきた。そして、自己ベスト75m96㎝という日本歴代2位の記録を持っている。
「和製カール・ルイス」と呼ばれ、日本記録を3回更新した朝原宣治。元々走り幅跳び専門だった朝原宣治は、1993年の国体で当時の日本記録である10秒19を出して優勝した。以後年々タイムを伸ばし、ベストタイムは10秒02。
また、オリンピックや世界選手権の100mでは準決勝に5度進出するなど、日本人ではトップクラスの活躍を見せた。オリンピックへの出場は陸上競技選手として2人目となる4回。長年に渡り日本の短距離界をリードしてきた。2008年の引退後は後進の指導にあたっている。第二、第三の朝原の出現が期待させる。