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箱根駅伝の最優秀選手に贈られる「金栗四三杯」ってなに?

2016 10/24 19:31
箱根駅伝銅像,Shutterstock.com
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Photo by cdrw/Shutterstock.com

箱根駅伝では2004年から最優秀選手に対して金栗四三杯を贈っている。今回は、一般の人にはあまり知られていない金栗四三杯について解説する。

金栗四三は日本マラソンの父

金栗四三(かなぐり しそう 文献によっては かなくり しぞう)とは、20世紀初頭にオリンピックのマラソン日本代表として活躍した人物だ。
金栗四三は1891年8月20日に熊本県玉名郡春富村(現在の和水町)で生まれる。旧制玉名中学を卒業したあと上京し、1910年に筑波大学の前身である東京高等師範学校へとすすむ。当時の東京高等師範学校は、校長だった加納治五郎の考えでスポーツ活動に力を入れており、金栗四三も陸上の長距離に取り組む。
1911年にマラソンのオリンピック予選に出場すると、マラソン用に開発した「マラソン足袋」の効果もあり、当時の世界記録を27分も更新するタイムをたたき出してストックホルムオリンピックの代表になった。三島弥彦とともに日本人初のオリンピアンでもある。

金栗四三、ストックホルムオリンピックに出場

日本マラソンの第一人者となった金栗四三だが、初めて参加した1912年のストックホルムオリンピックでは散々な結果に終わる。当時は船旅だったためストックホルムまでは20日もかかり、現地では日本食もないためコンディション調整に苦しむ。競技当日は迎えの車が来ないというハプニングに見舞われ、現場に走っていくはめに。
おまけにその日は最高気温40度という記録的な暑さに見舞われ、出場者の半分が途中棄権、金栗四三も日射病になり途中で意識を失ってしまうが、通りがかりの人に運ばれて近くの農家で介抱される。金栗は翌日になって目を覚ますが、すでにレースが終わっていることを知りそのまま帰国する。

ストックホルムオリンピック、その後

日射病から回復して失意のうちに日本へ帰国したわけだが、現地のストックホルムではレース中に失踪した日本人がいると話題になる。オリンピック委員会には、競技中に失踪したとして「行方不明」と記録されていたのだ。
その後、1967年にストックホルムオリンピックの開催から55周年を記念した式典が開かれたときに、金栗四三は招待を受ける。式典ではゴールテープを用意して金栗四三にゴールさせるという粋な計らいがなされて、ゴールした金栗四三の記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒3だった。この記録はオリンピックのマラソンで最も遅い記録という扱いがされている。

箱根駅伝の開催に尽力

最も活躍が期待された1916年のベルリンオリンピックが第一次世界大戦の影響で中止されたこともあり、オリンピックのマラソンでメダル獲得はならなかったが、その後は日本マラソンの強化に力を注ぐことになる。どうしたら強化につながるか考えた金栗四三はアメリカを駅伝で横断するという突拍子もないことを計画する。
そしてそのための予選として開催されたのが、第一回の箱根駅伝だった。アメリカ横断は実現しなかったが、箱根駅伝は日本の陸上競技でも最も盛り上がる大会の一つとして現在までつづけられることになる。金栗四三杯とはそんな金栗四三の遺志を忘れないようにするための賞として創設されたわけだ。

まとめ

箱根駅伝の最優秀選手賞である金栗四三杯について解説した。箱根駅伝の礎をきずいた偉大な人物の遺志を忘れないようにしたい。