悲願の金メダル・谷亮子
これまでにオリンピックや世界選手権でいくつもの金メダルを獲得してきた谷(田村)亮子選手。しかし、オリンピックでの金メダル獲得までの道のりは決して平坦ではなかった。
国内大会や世界選手権で数々の優勝を重ねてきた彼女だが、16歳で初出場した1992年のバルセロナオリンピック、1996年のアトランタオリンピック共に、決勝に進出するも銀メダルという結果に。
そして迎えた2000年のシドニーオリンピックでは、大会前に「最高でも金、最低でも金」という目標を口にする。そんな言葉通り、決勝ではロシアのブロレトワ選手に開始36秒で内股で一本をとり勝利。試合後には、「やっと初恋の人と巡り合えた」と発言するなど、悲願の金メダル獲得となったこの試合は、名場面として今でも語り継がれている。
田村でも金、谷でも金・谷亮子
シドニーオリンピックが終わり、2003年にプロ野球選手の谷佳知さんと結婚した田村亮子選手。これに伴い、名前も旧姓の田村亮子から谷亮子に変わることとなった。
そして迎えた2004年のアテネオリンピック。大会前に「田村でも金、谷でも金」と目標を語る。大会1ヶ月前に左足首を傷めながらも、準決勝までオール一本勝ち。決勝も快勝して見事にオリンピック2連覇、日本の女子の既婚選手として初めての金メダルとなった。
会場で応援していた、野球で銅メダルを獲得した夫の谷佳知さんにガッツポーズを向けるなど、夫婦揃ってのメダリストの仲の良さが感じられるシーンだった。
師匠との絆の深さに感動・谷本歩実
「一本柔道」をモットーとする谷本歩実選手。その言葉通り、2004年のアテネオリンピックでは、準決勝で当時世界チャンピオンのクルコウェル選手の負傷によって棄権勝ち、決勝ではハイル選手を背負い投げから横四方固で破り、見事オール一本勝ちで金メダルを獲得した。
勝者のコール直後、谷本選手は真っ先に恩師である古賀稔彦さんの元へ駆け寄ると、抱擁を交わしたのだった。試合中の闘志溢れるイメージとは違って可愛らしさが現れたギャップや、師匠と弟子でここまで頑張ってきたという絆の深さに感動した名場面だ。
残り8秒での逆転負け・塚田真希
2008年北京オリンピック、柔道女子100キロ超級の決勝。それまですべて一本勝ちで順調に進んできた塚田真希選手は、トウブン選手との決勝に臨む。前回のアテネオリンピックでは金メダルを獲得していた塚田選手だが、相手も世界柔道3連覇を達成していた強敵だ。
先に小外刈りで有効をとるなどリードを保ち続け、見事2連覇かと思われた塚田選手。しかし、残り8秒のところで背負い投げで一本を取られてしまった。金メダルを目の前にしながらも失ってしまったことに、大きな体で涙を流し続ける塚田選手が印象的な試合だった。
谷亮子に勝っても代表になれず・福見友子
長年、谷亮子選手の一人勝ち状態だった柔道女子48キロ級。そんな谷選手の存在に悩まされ続けたのが福見友子選手だ。
2002年、高校2年生ながらも全日本選抜柔道体重別選手権大会48キロ級1回戦で、当時65連勝中、対日本人12年間無敗の記録を保持する谷(当時、田村)選手に勝利したことで注目を集める。そして、2007年、世界柔道選手権大会の代表選考も兼ねる全日本選抜柔道体重別選手権大会48キロ級の決勝で再び谷選手に勝利し、見事初優勝を果たした。
福見選手にとっては翌年の北京オリンピックに出場するためにも世界大会で実績を積む必要があり、当然今大会の優勝で世界選手権への出場も期待されていた。しかし、全日本柔道連盟が選んだのは十分に実績がある谷選手だったのだ。これによって福見選手のオリンピック出場は消滅し、日本中で話題となった。
まとめ
過去の名場面を振り返ってみると、柔道に対する彼女たちの人柄や想いが伝わってくる。
だからこそ、日本中で名場面として長く語り継がれているのだ。
今後も生まれるであろう名場面の数々に期待したい。