膝のケガを押してのオリンピック2連覇
まず紹介すべきなのは、1984年ロサンゼルスオリンピック、そして1988年ソウルオリンピックでの連覇だろう。
1983年の世界選手権を制し、選手として心身ともに充実した状態で迎えたロサンゼルスでは、圧倒的な強さを見せつけ、見事金メダルに輝いた。
右膝に爆弾を抱えながら迎えた1988年のソウル。実はこの大会、斉藤仁さんの出番が来るまで柔道競技での金メダルは0個だった。このままでは東京オリンピック以来続いていた金メダル獲得記録が途絶えてしまうという中、重圧をはねのけて見事に金メダルを獲得したのだ。
1987年の全日本選手権で右膝にケガをし、選手としては限界を迎えていたのではという周囲の声もあった。また、当時20歳だった小川直也さんを代表に推す声もあったという。それでも右膝に鍼を打ち、自身も「泥臭い」というほどの粘りのある柔道を見せ、見事獲得した金メダルだった。
山下泰裕とのライバル関係
また山下泰裕さんの話も欠かせない。最大で最高のライバルと認め合う関係であり、アトランタでは斉藤仁さんが95キロ級・山下泰裕さんが無差別級の代表としてともに金メダルを獲得した戦友でもあり、そして1983?85年の全日本柔道選手権大会において3年連続で優勝を争った因縁の相手でもある。
しかも、山下泰裕さんは1985年の大会当時、公式戦202連勝・大会8連覇という記録を継続中で、何としてもこの記録を止めたいところだった。迎えた1985年大会決勝、支釣込足を仕掛けてきた山下泰裕さんを空振りさせ、そのまま背中から倒しこむことに成功。いよいよ連勝がストップか、という惜しいところまでいったのだが、惜しくもこれがポイントとして認められず。結局203連勝と大会9連覇を目の前で許してしまう。
最終的な戦績は8戦8敗。一度も土をつけることはできなかったが、実力に圧倒的な差があったわけではない。しかし、お互いがお互いの実力を高めあう存在だったというのは確かだろう。斉藤仁さんのオリンピック2連覇、そして山下泰裕さんの203連勝も、お互いがいたからこその結果かもしれない。
監督として多くの教え子を金メダルに
1988年のソウルオリンピックの後、無理がたたったのか膝の状態がさらに悪化してしまい引退を表明。引退後は母校の国士舘大学柔道部でコーチを務めたほか、全日本柔道連盟男子強化ヘッドコーチとして後進の育成に励む。さらに2004年のアテネオリンピック、2008年の北京オリンピックでは監督を務め、鈴木桂治さんや石井慧さんを金メダルへと導いた。
ちなみに、コーチ・監督時代はかなりのスパルタな指導を行っていたそうだ。特に鈴木桂治さんや石井慧さんは国士舘高校・大学の後輩にもあたる存在で、かなり厳しい指導を受けてきた。鈴木桂治さんいわく、夜中の2時3時まで道場で練習するのは当たり前、指示に対して「できません」という返事は一切認めない、まさに「鬼」のような存在だったそうだ。
道場では見せなかった「やさしさ」
しかし、これだけ厳しい指導をしていても、「斉藤先生」といって彼を慕う人は多いのだ。それはきっと、本物の「やさしさ」を兼ね備えた監督だったからだろう。ある日、鈴木桂示さんが国士舘大学のツテを使って専門家にトレーニングを依頼したところ、「斉藤先生にはお世話になりましたから」といって二つ返事で引き受けてもらったことがあったそうだ。
畳の上では厳しい指導を見せても、見えないところでもしっかりと後輩のことを助けていたのだ。”教え子”には非常に厳しかった斉藤仁さんだが、とても”後輩”想いの人物だったということなのだ。
その想いはすべての柔道家に
指導者としても数多くの金メダリストを輩出してきた斉藤仁さんだが、2013年には肝内胆管がんが判明。しかし、闘病生活を続けながら全日本柔道男子協会員を務め、後進の育成に力を注いだ。2人の息子も順調に育ち、2020年の東京オリンピックで金メダルが期待される存在へと成長。いつか父親にオリンピックでメダルを獲る姿を見せたいと語っていた.。
2015年1月20日、斉藤仁さんは残念ながら東大阪市内の病院で亡くなってしまった。しかし、病に伏してもなお柔道界に貢献し続けたその姿、その想いは、きっとすべての柔道家に受け継がれていくことだろう。「日本柔道界を強くすることが斉藤さんへの恩返し」が、日本柔道界の合言葉だ。
まとめ
本当に惜しい人をなくしてしまった。
しかし、斉藤仁さんは目に見えない財産をたくさん残してくれている。
そんな斉藤先生に報いるためにも、ぜひとも柔道日本代表の皆さんには頑張ってもらいたい。