小さな頃から大きな体!中学時代は無敵の存在
山下泰裕さんは、1957年、熊本県に生まれる。小さな時から体が大きく、4歳の時には身長122cm、20kgまでに成長。小学校3年生の時に始めた柔道でも体の大きさがいかんなく発揮され、6年生の時には県大会で優勝するほどの実力をつける。
中学校へ進学する頃になるとすでに体重は100キロ近くになっていたそうで、柔道部でも中心選手となった。2年生、3年生の時に全国大会の団体戦に出場し、2年連続のオール一本勝ちで優勝に貢献。
進学の際には県内外のさまざまな強豪校からスカウトを受けたものの、中学の恩師だった白石礼介さんの指導を高校でも受けられるということで、九州学院高校へ進学した。
高校では伸び悩むも、東海大相模で才能開花
高校では最初のインターハイこそ史上初の1年生優勝を果たしたものの、金鷲旗や2年のインターハイで判定負けを喫するなど、中学では無敵だった状態からやや伸び悩む。高校に入ってから同世代のライバルたちがどんどん力を伸ばしていくうえ、このまま熊本にいても練習相手を見つけることすら難しい。そう悩んだ末、県外へ行くことを決意する。
2年生の2学期から東海大相模高校へ転校すると、東海大学で稽古をつけてもらえることになり、恵まれた環境でぐんぐんと力をつけていく。9月には東海大学のヨーロッパ遠征にも帯同させてもらい、13連勝を記録。3年生になると社会人も出場する全日本選手権で3位入賞を果たす。
結局、3年生の時には金鷲杯、インターハイ個人戦・団体戦、国体、全日本新人体重別選手権、フランス国際で優勝。全日本体重選抜選手権ではモントリオール銀メダリストの鈴木純男さんに敗れてしまうが、東海大相模に出てきてからの成長は著しいものを見せた。
幻となったモスクワオリンピック
その後は東海大学大学院に進学。1979年の世界選手権でも優勝を果たし、モスクワオリンピックの日本代表に選出される。金メダルを狙っていたのだが、思いがけない出来事がおきる。何とこのオリンピックに日本が不参加を表明してしまうのだ。
1979年ごろからソ連ではアフガニスタン紛争の介入が進められていた。そして日本はこの正当な理由なき侵攻に対して抗議の意味を込め、オリンピックをボイコット。山下泰裕さんにとって初のオリンピックは、幻と終わってしまった。「いくら酒を飲んでもやり切れない思いだった」と語るほど、悔しい気持ちでいっぱいだったそうだ。
悲願だった金メダル獲得
それでも、東海大学の総長の助言でモスクワで試合を観戦すると、何とか気持ちが落ち着き、再び柔道に打ち込むことができるようになった。その後の4年間もしっかりと結果を出し、満を持して1984年ロサンゼルスオリンピックの代表に選出される。
念願だったオリンピック。気合を入れて試合に臨んだのだが、2回戦でハプニングが発生。右足の肉離れを起こしてしまうのだ。試合後、肉離れを悟られないように平然を装っていたそうなのだが、誰の目から見ても明らかなほどに足を引きずっていた。
それでも何とか勝ち進み、決勝へと駒を進める。相手はエジプトのモハメド・ラシュワン。強気に攻めてくるラシュワンに対し、足をかばいつつ冷静にかわしていく。そして相手の体制が崩れたのを見るや否やすぐさま横四方固め。勝つには寝技しかないと思っていたこちら側の思惑通りの展開となり、そのまま30秒が経過。見事に抑え込み一本勝利をおさめ、悲願だった金メダルを獲得するのだ。
公式戦203連勝を残して引退
その後は足の治療に専念して、しばらく大会は控えることに。何とか翌1985年の全日本選手権で優勝を収めたものの、結局足が完治することはなく、28歳ながら引退を決意する。
しかしすごいのは、大学2年生(1978年)の10月に全日本学生選手権で敗退して以来、7年間1度も負けなかったということだ。7度の引き分けを挟む203連勝を記録。とりわけ外国人選手に対しては116勝0敗3引き分けと無類の強さを発揮した。通算成績は528勝16敗15分け。いまだ世界史上最強の柔道家であるという声も多いほど、圧倒的な強さを誇っていたのだ。
引退後は国際柔道連盟の教育コーチング担当理事などに就任。2015年にはその国際柔道連盟によって殿堂入りの表彰も受けた。現在は味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)のトップに就任し、柔道だけでなくさまざまなスポーツの分野で日本人選手をサポートしている。
まとめ
公式戦203連勝はまさに圧巻の成績。世界史上最強の柔道家と呼ばれるのも無理はない。
体格でも成績でも、本当にスケールの大きな柔道家だった。またいつか、彼のような柔道家を見てみたいものだ。