柔道の歴史
明治時代の日本では、柔道のルーツである柔術が行われていた。しかし、侍がいなくなり、欧米文化が日本に普及することで柔術が衰退してきたのだ。その柔術を柔道として型を見直して普及させたのは嘉納治五郎だ。彼は、さまざまな流派の柔術を学び、良いところをまとめて柔道という型を作り上げたのだ。1882年、嘉納治五郎はこの柔道を9人の門下生と共に日本国内へ広げていった。嘉納治五郎は、柔道だけでなく教育面にも優れており、しばしば”教育の父”とも呼ばれている。柔道に教育を合わせたことで、現在でも通じる礼儀作法が生まれたといえるだろう。
世界での普及
1889年、嘉納治五郎は柔道普及のために海を渡りヨーロッパへ赴いた。その船の中で、嘉納治五郎は大きな外国人の相手に対して柔道を披露する。その際に外国人を投げ飛ばした後、頭が床に打ち付けられないよう手を差し入れたエピソードも残っている。嘉納治五郎の弟子たちも、同じように世界へ柔道を広めに行き、多くの外国人の前で技を披露した。その後、日本にやって来た外国人が柔道を学び、自分の国へ持ち帰って競技者が増えた。日本人が外国で教えることと外国人が日本で学んで持ち帰ることの合わせ技で、柔道が急速に広まったのだ。
オリンピックと柔道
柔道は今でこそオリンピックにおける代表的な競技のひとつだが、正式競技となったのは1964年の東京オリンピックで初めて正式競技として採用されたのだ。東京オリンピックで行われた柔道は、わずか4階級だった。日本人選手が全階級で金メダルを獲るものと思われていたが、無差別級の決勝で神永昭夫がアントン・ヘーシンク(オランダ)に敗れてしまう。金メダル確実と言われた日本人選手が敗れたことが、柔道が国際的な普及を果たすきっかけとなったのだ。
女子柔道の普及
1964年の東京オリンピックで正式競技となった柔道だが、当時は男子柔道のみだった。これは、オリンピックが元々女人禁制だったことに由来する。当時は女性の社会進出や権利が認められておらず、それは政治の世界だけではなくスポーツの世界でも同じだったのだ。1970年代に女性の社会進出が認められるようになると、オリンピックにも影響を及ぼし、1988年のソウルオリンピックで公開競技となり、1992年のバルセロナオリンピックで正式種目となったのだ。
柔道の大会はどのようなものがあるの?
柔道では2009年からIJFワールド柔道ツアーというワールドツアーを行っている。テニスやゴルフのツアーと同じ仕組みで、大会で勝利するとポイントが与えられ、ランキングが変動するのだ。オリンピックが最高峰に位置付けられており、世界選手権、ワールドマスターズ、グランドスラム、グランプリ、大陸選手権、コンチネンタルオープンの順番で格付けされている。ツアーとして始まったのが2009年ということから分かる通り、まだ歴史は浅く、これから変更もあるかもしれない。国際的なツアーの整備は柔道の普及に欠かせないものとなってくるだろう。
まとめ
柔道の歴史を知る機会はそんなに多くないのではないだろうか。学校で取り入れられたりもしているが、実戦が主で歴史の勉強はなかなかないからかもしれない。柔道の歴史やルーツを頭に入れておくことで、柔道の楽しみ方がひとつ増えるのではないだろうか。