佐藤は18本塁打、大山は23本塁打
開幕9連敗を喫し、最大借金16から3位まで浮上した阪神。まだシーズンは終わっていないが、来季以降も考えると、大山悠輔内野手(27)と佐藤輝明内野手(23)の左右のスラッガーが並ぶ打線を確立できたことは大きな収穫だろう。
昨年はルーキー佐藤のセンセーショナルな活躍ばかりが目立っていたが、今季はコロナ感染などで離脱した期間はあるものの、3番・近本光司から、4番・佐藤、5番・大山のクリーンアップを固定できた。
佐藤は6日のヤクルト戦で6番に降格したとはいえ18本塁打を放っており、大山も23本塁打と一定の結果は残している。大山が打つほど相手投手は佐藤と勝負せざるを得ず、逆もまた然り。互いに補完し合う好循環を生む土壌は少しずつ整いつつある。
1978年に田淵38本塁打、掛布32本塁打
阪神ではかつて田淵幸一と掛布雅之という左右のスラッガーが並んだ時代があった。今の状況はあの頃と似ていないだろうか。
習志野高からドラフト6位で入団した掛布がサードのレギュラーを獲ったのが1975年、20歳のシーズンだった。106試合に出場して11本塁打をマーク。翌1976年には打率.325、27本塁打、83打点の好成績を残すと、1977年は打率.331、23本塁打、69打点、1978年にはオールスターで3打席連続本塁打を放ち、打率.318、32本塁打、102打点とスターダムを駆け上がった。
一方の田淵は1975年に43本塁打をマークし、前年まで13年連続本塁打王だった王貞治からタイトルを強奪。1976年以降も39本、23本、38本と美しい放物線を描く本塁打を打ちまくった。30歳前後の脂の乗り切った時期だった。
阪神の黄金時代を築くはずだった長距離砲コンビはしかし、突然引き裂かれることになる。球団初の最下位に終わった1978年11月15日の深夜、田淵に突然のトレード通告。田淵が西武に放出されたことで掛布とのコンビは解消を余儀なくされた。
掛布にとって9歳上のスラッガーから学んだことは多かっただろう。3番・掛布、4番・田淵、5番・ラインバック、あるいは3番・藤田平、4番・田淵、5番・掛布のクリーンアップは超強力。田淵がいるおかげで掛布と勝負してもらえた打席も多かったはずで、主砲として大切なエッセンスを吸収したに違いない。
その後、1979年ドラフト1位で入団した岡田彰布が成長し、1985年にバース、掛布、岡田のクリーンアップが大爆発して日本一に輝いたことはご存じの通り。第2次ダイナマイト打線は突然生まれたわけではなく、田淵と掛布の長距離砲コンビから脈々と受け継がれたものがあったのだ。
生え抜き30発は1985年の掛布&岡田が最後
そういう意味では、佐藤にとってプロの先輩で4学年上の大山の存在は大きいだろう。互いに切磋琢磨し、刺激し合っていけば、いずれ大輪の花を咲かせる時が来るはずだ。
阪神の生え抜き打者で30本塁打をマークしたのは、1985年の掛布(40本)と岡田(35本)が最後。それ以前で、2人以上の生え抜き選手が同一年に30発以上マークしたのは1978年の田淵(38本)と掛布(32本)までさかのぼるのだ。
時は巡る。大山と佐藤が同時に30本塁打を放てば、その時こそ阪神がセ界の頂点に立っているかも知れない。そして、その時はそう遠くないと筆者は見ている。
※成績は2022年9月7日現在
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