若き天才・植村義信投手
ロッテの前身である毎日オリオンズの初期を支えた投手だ。1953年から1961年の9年間にわたって、背番号18を背負っていた。
芦屋高等学校では、2年生の夏から3大会連続で甲子園に出場し、1952年の夏の甲子園大会では、決勝で八尾高を破って初優勝を飾っている。
1953年に毎日オリオンズに入団すると、2年目から一軍に定着。4年目の1956年には19勝を挙げ、最高勝率のタイトルを獲得した(19勝5敗、勝率.792)。
オールスターゲームにも2回出場し、ますますの活躍が期待されたが、たび重なるけがや病気の影響もあって、26歳の若さで惜しまれつつ引退した。
次代の育成者・石川賢投手
石川賢投手は、中学時代は野球部だけでなく陸上部としても活躍。高校時代は日川高校で1年生からエースピッチャーとして活躍。1978年の夏の甲子園にもエースで4番として出場した。
その後、日本大学に進学し、東都大学リーグでの1部昇格に多大な貢献をした。1982年のドラフトでロッテオリオンズより1位指名を受けて入団した。
前評判通りの能力を発揮し、1年目から一軍に定着し、翌年には15勝4敗で、最高勝率(.789)のタイトルを獲得した。しかし、翌年からは肩やひじのケガに悩まされ、期待されるような成績は残せなかった。
現在は教員免許を取得し、埼玉平成高等学校で教鞭をとっているほか、2013年には日本学生野球協会により、学生野球資格が回復されたので、アマチュアの指導も可能になっているそうだ。
シャイな豪腕・伊良部秀輝投手
現在40歳前後かそれ以上の世代の人は、ロッテのエースと聞いたときに、伊良部秀輝を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。当時の日本最速記録保持者でもある。
香川県の尽誠学園高校 学校に在学中、1986年、1987年と2年連続で、全国高等学校野球選手権大会に出場している。その不敵な態度は当時から語り草になっていた。
1987年にドラフト1位でロッテオリオンズに指名され入団。当時のロッテは弱小球団として知られていたが、1994年に15勝で最多勝を挙げるなど、徐々にパ・リーグを代表する投手へと成長していった。
1997年にはニューヨーク・ヤンキースへ移籍。メジャー通算で34勝を挙げたのちに、阪神タイガースに入団。2003年には阪神タイガース18年ぶりの優勝の立役者の一人となった。
マーリンズ中興のエース・清水直行投手
伊良部秀輝以降、空位になっていた背番号18を引き継いだのが、清水直行投手だ。最速151kmのストレートと、高速スライダーのコンビネーションは、当時のパ・リーグでは屈指のキレを誇った。1999年の都市対抗野球で、この年に廃部となることが決まっていた東芝府中硬式野球部の最後の試合に登板。しかし、満塁ホームランを浴びて降板し、同チームの最後の敗戦投手となった。
その年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズを逆指名し、2巡目で入団した。2002年には14勝、2003年には15勝と、ロッテのエースの階段を駆け上がっていき、2005年には日本一の原動力として活躍した。
現在は、ニュージーランドの野球チームのコーチをするとともに、同国野球連盟のGM補佐も兼ねている。その後、第4回のWBC予選、ニュージーランドチームの投手コーチに就任することが決まっている。
次世代エース・藤岡貴裕投手
清水直行投手の後、また空位となっていた背番号18を受け継いだのが藤岡貴裕投手だ。ロッテは空いたから背番号を挙げるというのではなく、「これは」という選手が出てきたら渡すようだ。
藤岡投手も、非常に期待されている現在5年目の選手だ。 大学時代には、明治大学の野村祐輔投手、東海大学の菅野智之投手とともに「大学ビッグ3」として注目されていた。
2011年のドラフト会議では、ロッテのほかに横浜ベイスターズ、楽天イーグルスが競合したが、ロッテがくじ引きの結果交渉権を獲得、ドラフト1位での入団となった。
入団後4年間で20勝29敗と、まだ本来のポテンシャルが発揮されているとは言えないが、同期の野村投手や菅野投手が先発陣の一角となっているので、藤岡投手にも奮起が期待されている。
まとめ
不遇の時代のエースは勝ちに恵まれないことが多い。勝敗だけでなく、防御率にも注目してみて欲しい。