川上巨人がV7達成した1971年
夏の甲子園で桐蔭学園(神奈川)が優勝した1971年。プロ野球では、巨人が日本シリーズで西本幸雄監督率いる阪急を下して7連覇を達成した。
同年のドラフト会議の目玉候補だった慶応義塾大の松下勝実はプロ入り拒否を表明し、全球団が指名を回避した。当時は予備抽選で指名順を決定し、奇数順位は予備抽選の1番から12番へ、逆に偶数順位は12番から指名していく変則ウェーバー方式。現在のように重複すれば抽選というルールではないため、予備抽選による運、不運が大きかった。
予備抽選の結果はロッテ―阪神―巨人―広島―西鉄―南海―ヤクルト―大洋―東映―中日―阪急―近鉄に決まった。

各球団1巡目指名選手のプロ入り後の成績を振り返る。
阪神1位の山本和行は100勝100セーブ
ロッテは三菱自動車川崎の井上圭一を1位指名した。1年間は社会人としてプレーし、翌1972年の都市対抗にも出場。同年のドラフト前にロッテに入団したが、1年目に4試合登板したのみに終わり、阪神に移籍した1975年に引退した。
阪神は東都リーグ通算33勝を挙げた亜細亜大の左腕・山本和行を指名した。プロ入り後は主にリリーフとして活躍し、1982年と1984年には最優秀救援投手のタイトルを獲得。1985年には中西清起とのダブルストッパーで優勝に貢献するなど通算700試合登板、116勝106敗130セーブをマークした。
巨人は東京六大学リーグ通算16勝の立教大・横山忠夫を指名した。大学の先輩でもある長嶋茂雄監督就任1年目の1975年に8勝をマーク。ロッテに移籍した1978年にユニフォームを脱ぐまで通算12勝15敗の成績を残した。
広島は芝浦工大の捕手・道原博幸を指名。1975年の初優勝や1979、80年の連覇に貢献し、1984年に引退するまで通算532試合に出場した。引退後は広島でバッテリーコーチや寮長などを務めた。
西鉄最後のドラフト1位・吉田好伸は入団拒否
西鉄は丸善石油下津の右腕・吉田好伸を1位指名した。和歌山工高時代もロッテから7位指名を受けて入団拒否したが、この年も拒否。西鉄は翌1972年のシーズン終了後に球団譲渡して太平洋クラブとなったため、この年が最後のドラフトとなった。
南海は富士重工の野崎恒男を指名した。和歌山・向陽高から立正大を経て社会人でプレーしていた右腕は、杉浦忠がつけていた背番号21を継承。1年目に4勝を挙げたが、1976年に太平洋へ移籍し、1978年には中島浩一、高木孝治との交換トレードで近鉄に移籍した。1979年に引退するまで通算131試合登板、9勝13敗の成績を残している。
ヤクルトは駒澤大の杉山重雄を指名。長野・野沢北高から進学し、大学時代は東都リーグ通算15勝を挙げた。1年目にプロ初勝利を挙げたが、それがプロ唯一の白星。1974年オフに松井優典とのトレードで南海に移籍し、1975年に引退した。
大洋は同年春夏連続で甲子園に出場した深谷商高の右腕・竹内広明を指名。1973年にはキャリアハイの9勝を挙げるなど1983年に引退するまで通算278試合登板、28勝38敗5セーブの成績を残した。
近鉄は1位で佐々木恭介、2位で梨田昌崇
東映は法政大の横山晴久を1位指名した。小倉工高時代に南海の3位指名を拒否して進学。東京六大学リーグ通算29勝をマークした右腕は、4年目の1975年に挙げた初勝利が唯一の白星だった。
中日は鶴崎工高の藤沢哲也を指名。 1975年オフに西岡三四郎との交換トレードで星野秀孝とともに南海に移籍したが、一軍では通算2試合に登板したのみで白星を挙げられないまま1980年オフに引退した。
阪急は日産自動車の渡辺弘基を指名した。日立一高から進学した亜細亜大時代に東映の3位指名を拒否した左腕。プロ入り後は初勝利を挙げた1974年オフにトレードで広島へ移籍し、1975年には55試合に登板して初優勝に貢献した。1976年にはリーグ最多の73試合に登板するなど中継ぎとして活躍。通算249試合登板、8勝9敗7セーブの成績を残し、1979年に引退した。
近鉄は新日鉄広畑の佐々木恭介を指名した。前年に東映の9位指名を拒否したが、1971年の都市対抗で橋戸賞に輝く活躍を見せてドラフト1位でプロ入り。1978年に打率.354で首位打者に輝くなど通算1036試合出場、883安打、105本塁打をマークした。引退後は1996年から4シーズン近鉄の監督を務め、阪神、西武、中日などでコーチを歴任した。
2位以下では、早稲田大・中村勝広(阪神2位)、浜田高・梨田昌崇(近鉄2位)、指宿商高・永射保(広島3位)、三田学園高・羽田耕一(近鉄4位)、東京農大・片平伸作(南海4位)、柳川商高・若菜嘉晴(西鉄4位)、神戸大丸・小林繁(巨人6位)、大昭和製紙・安田猛(ヤクルト6位)、クラレ岡山・平野光泰(近鉄6位)らがプロ入り。徳島・海南高の尾崎健夫はヤクルトから3位指名されたが、兄・将司と同じプロゴルファー転身を目指して入団を拒否した。
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