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裏切りのアイアンフィンガー、飯塚高史(いいづかたかし)選手のプロレス人生を解説

2017 1/18 10:02
プロレスリング,ⒸShutterstock.com
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Photo by 977_ReX_977/Shutterstock.com

プロレス人生において「裏切り」の代名詞となってしまった選手、それが飯塚高史選手です。 若手時代から海外遠征などで技術を身に着けたエリートだったものの、その寡黙さからブレークまでには時間のかかった苦労人。 そんな一面も持つ飯塚選手のプロレスラー人生を紹介します。

飯塚高史選手の代名詞「スリーパーホールド」

飯塚高史選手の代名詞といえば、頚動脈(けいどうみゃく)を締めるスリーパーホールドです。 飯塚選手自身がブレークのきっかけをつかんだ技でもあり、2000年1月に行われた橋本真也選手とタッグを組んだ小川直也&村上和成戦という注目度の高い一戦で、村上選手を倒したスリーパーホールドは、飯塚選手のキャリアを通じて使われるようになりました。
ヒール転向後は、鉄製グローブを使った地獄突きや鉄製マウスピースによる噛みつきなど、反則技を駆使した試合を繰り広げています。

プロレスデビュー戦、タッグ、遺恨…AKIRA選手との縁

1985年に新日本プロレスに入門した飯塚選手は、翌1986年にAKIRA(当時は野上彰)選手を相手にデビュー戦を行いました。後にAKIRA選手とはタッグ(J・J・JACKS)を組むことになり、ともにIWGP(インターナショナル・レスリング・グランプリ)のタッグ王座に挑戦することになりますが、獲得することはできませんでした。
また、2人は後に元タッグパートナーとして遺恨が勃発。2011年には狂乱ファイトでAKIRA選手が飯塚選手を攻めましたが、最後はヒール化した飯塚選手がレフェリーへの暴行で反則負けを選びました。

海外修行のプロレスエリートも地味キャラで人気は出ず

飯塚選手はキャリア初期となる1989年、ロシアの軍隊格闘術「サンボ」を修行するため、馳浩選手とともにグルジアに行くなど、プロレスエリートとしての道を歩んで行きます。
海外遠征から帰国した際には、闘魂三銃士(武藤敬司選手、橋本真也選手、蝶野正洋選手)や佐々木健介選手といった一線級にシングル戦を申し込むも対戦は実現せず。新世代闘魂トリオ(エル・サムライ選手、AKIRA選手)の一角として躍り出たものの、優しく寡黙な性格から人気に火が付くまでに時間がかかりました。

ヒールとして2008年に再ブレーク

橋本選手とのタッグ戦やGIタッグリーグ戦など、プロレスラーとして飯塚選手がブレークしたのが2000年でしたが、ヒールとしてブレークしたのは2008年の出来事です。
2001年に首を負傷して長期欠場を余儀なくされたことで、注目されない日々が続いたものの、2008年に救援した縁でタッグを組んだ天山広吉(てんざんひろよし)選手を裏切ったことでヒールへと転向。寡黙なキャラと相まって、ヒールの中でも特に不気味な存在として際立ち、悪役としての地位を確立しています。

2011年にはプロレス大賞年間最優秀試合も獲得

ヒール転向後は、選手だけでなく観客席やテレビ朝日のプロレス実況を担当する野上慎平アナウンサーを執拗に襲う狂乱キャラで人気をつかんだ飯塚選手。
反則負けの多さでも知られますが、2011年の震災復興チャリティー試合のセミファイナルに矢野通選手とともに出場した際には、武藤敬司&小橋健太組に連続ムーンサルトプレスをくらって敗れはしたものの、同年におけるプロレス大賞の年間最優秀試合を受賞するなど、悪役としての存在感は増すばかりです。

まとめ

実力派ながら寡黙で地味キャラだったことから人気が出なかった飯塚高史選手ですが、注目の一戦で出したスリーパーホールドでブレーク。 ヒール転向後の荒れっぷりも凄まじく、人気選手の一員として活躍しています。 2016年現在、鈴木軍の一員として暴虐の限りを尽くす飯塚選手がどのように進化していくのか、今後も目が離せません。