自転車パーツで有名なシマノの成り立ち
当時26歳だった創業者である島野庄三郎氏が、1921年2月堺市東湊に立ち上げた「島野鐵工所」。月5円でセルロイド工場の跡地だった12坪の場所を借り、たった1台の六尺旋盤をもとに事業をスタートした。島野庄三郎氏は自転車の重要部品である、フリーホイールの生産を決定。
現在もメインの事業である自転車のパーツを、島野庄三郎氏の考えのもと創業当時から製作している。抵抗の少ない輸入ベアリングと技術を見直し、品質の高い製品を世に送り出した。
出典 Ekaterina_Minaeva/Shutterstock.com
ヨーロッパでは自転車ロードレースがとても人気のスポーツだ。その選手と競技を支えるのが、自転車のマシン、そして数多くパーツたち。ここでは、有名なツール・ド・フランスをはじめ、さまざまなレースで人気の、日本が誇るシマノ製の自転車パーツの魅力を紹介していく。
当時26歳だった創業者である島野庄三郎氏が、1921年2月堺市東湊に立ち上げた「島野鐵工所」。月5円でセルロイド工場の跡地だった12坪の場所を借り、たった1台の六尺旋盤をもとに事業をスタートした。島野庄三郎氏は自転車の重要部品である、フリーホイールの生産を決定。
現在もメインの事業である自転車のパーツを、島野庄三郎氏の考えのもと創業当時から製作している。抵抗の少ない輸入ベアリングと技術を見直し、品質の高い製品を世に送り出した。
1921年に創業した「島野鐵工所」。1940年には株式会社となり、商号を「株式会社島野鉄工所」へと変更した。1957年には「3 SPEED HUB」と呼ばれた内装3段変速機の生産を開始。その後アメリカに事業展開するなどさらに躍進を続ける。そして1970年には自転車部品と同じく、主力商品となる釣具にも着手。
1991年には「株式会社シマノ」に商号を変更し、日本が誇る世界最大の自転車パーツメーカーとして発展した。
マウンテンバイクの進歩によって世界的なメーカーとなったシマノ。マウンテンバイクの部品に関しては独占状態と言っても過言ではないほど、価格と性能の面で信頼を積み上げてきた。またロードバイクも世界的に最大メーカーだったカンパニョーロと競合するまでに発展、日本国内では大きなシェアを獲得している。
そんなシマノの自転車が世界的にも人気が出た理由は、コンポーネントという概念を生み出したこと。部品一括供給のため互換性問題が減り、部品の組み合わせなどが自由におこなえるようになった。
そのため自転車のバリエーションも容易に増やせて、価格や好みのタイプなど自由に合わせることが可能となり人気が出た。
1973年に発売した「DURA-ACE」でコンポーネントという概念を生み出し、人気が出たシマノの自転車パーツ。しかし1981年に投入した「AXシリーズ」は強度が不足することによって生じる破損や、エアロダイナミクスを実感できないなど、失敗作としての烙印を押された。
またコンポーネントで成功したにもかかわらず、互換性の問題や整備性なども新たに浮かび上がる結果に。
しかしシマノはその失敗を教訓として、製品化する前にはプロレーサーによるテストなどを徹底的に実践。結果、信頼の高い製品を生み出し人気を勝ち取った。
ロードバイクモデルのコンポーネント「DURA-ACE(デュラエース)」は、海外でも人気があるシマノの最高峰に位置する自転車だ。海外にシマノヨーロッパを設立したのにともない、ヨーロッパでのレース用部品を開発することが必要となり設計。
そしてシマノは高級感あふれるコンポーネント「Dura Ace Component with Crane model」を発表した。デュラエースは信頼性が高いことはもちろんのこと、世界で初めてとなる「デュアルコントロールレバー」や「シマノインデックスシステム」など技術革新も続け、ヨーロッパのプロ選手に人気が出るきっかけとなった。
自転車レースの本場ヨーロッパをはじめ、海外でも人気のシマノ製自転車パーツを紹介した。世界最大を誇る自転車パーツメーカーとして、日本を代表するといっても過言ではないシマノ。きっとこれからも世界を舞台に活躍を続けていくことだろう。