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阪神タイガース背番号31の系譜、マルテが受け継ぐ栄光の歴史

2019 3/25 10:54SPAIA編集部
マルテ,ⒸSPAIA
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藤村の10、村山の11、吉田の23は永久欠番だが…

プロ野球選手の背番号には歴史がある。偉大な功績を残した選手の番号は永久欠番になる場合もあるが、実働年数が短かったり、様々な事情で永久欠番にならない場合、受け継ぐ選手は背番号とともに大きな期待も背負うことになる。エースナンバーの18や正捕手に多い22、27など以外にも、左腕投手に背番号34が多いのは400勝投手・金田正一にちなんでいることはよく知られているし、オリックスの背番号51はイチローがメジャー移籍後は空き番になったままだ。

阪神タイガースでは初代ミスタータイガース・藤村富美男の「10」、ザトペック投法・村山実の「11」、牛若丸と呼ばれた吉田義男の「23」が永久欠番となっている。しかし、通算349本塁打を放ち、1985年に日本一を達成した時の主砲だった掛布雅之(現オーナー付シニアエグゼクティブアドバイザー=SEA)の「31」はその後も受け継がれている。

阪神31表,ⒸSPAIA

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長嶋と王を足した掛布の31

掛布の功績については説明の必要もないだろう。千葉・習志野高からドラフト6位で入団し、1979年には48本塁打で初タイトルを獲得。82年には本塁打、打点の2冠王、84年にも3度目の本塁打王に輝いた。

そして迎えた85年、史上最強助っ人の呼び声高いバース、早大からドラフトで6球団競合の末に阪神に入り主力となっていたスラッガー岡田彰布とクリーンアップを組み、21年ぶりのリーグ優勝、初の日本一を果たした。この年4月17日の巨人戦で槙原寛己から放ったバックスクリーン3連発は今でも語り草だ。掛布の背番号31は「長嶋茂雄の3番と王貞治の1番を足した番号」と言われるほど、球界を代表するスターだった。

大阪出身のスター候補・萩原

掛布がケガのため33歳の若さで引退するとしばらく空き番だったが、期待の大砲候補が出現した。1991年夏の甲子園で大阪桐蔭の4番として初の全国制覇を果たした高校通算58本塁打のスラッガー・萩原誠だ。地元・大阪出身のスター候補に栄光の31番が託された。

しかし、期待には応えられず阪神在籍中は通算4本塁打12打点に終わり、97年オフに近鉄へトレード。2001年にプロ野球から引退した。

萩原誠,ⒸSPAIA

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六甲おろしを熱唱した広澤

萩原に続いて31を背負ったのが広澤克実。ヤクルトからFA移籍した巨人を経て2000年から4年間、タテジマのユニホームに袖を通した。お立ち台で「六甲おろし」を熱唱するなどファンに愛された選手だった。

広澤克実,ⒸSPAIA

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右肩痛に泣いた濱中

広澤の引退後、31を受け継いだのが濱中治(当時の登録名はおさむ、現1軍打撃コーチ)。通算51本塁打をマークした和歌山・南部高から入団し、2002年には18本塁打を放つなど伸び盛りの和製大砲候補だった。しかし、25から31に変更した2年間は右肩痛の影響もあって低迷。06年には背番号を5に再変更し、登録名を本名に戻すとキャリアハイの20本塁打、75打点をマークした。

濱中治,ⒸSPAIA

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台湾出身の巧打者・林威助

掛布の引退後では最も長い8年間、31を背負ったのが台湾出身の左打者・林威助。長距離砲ではないが、2007年には15本塁打58打点の成績を残し、14年からは台湾の兄弟エレファンツで3年間プレーした。

林威助,ⒸSPAIA

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カークランド以来の助っ人「31」マルテ

その後、掛布2軍監督時代の2年間を除くと空き番になっていたが、今季から新外国人のマルテが背負う。31を与えたことからも、メジャー通算30発の大砲候補への球団の期待がうかがえる。

実は31を外国人助っ人が背負うのは掛布の前に付けていたカークランド以来(柳川―近大から入団した林威助は日本人扱い)。爪楊枝をくわえる姿を覚えているオールドファンも多いだろう。阪神には6年在籍して通算126本塁打、304打点をマークした。

阪神では31を背負うだけで周囲の期待は高まる。マルテにはカークランド並みの息の長い活躍が期待されるが、果たして…。