2連覇するも日本シリーズに出られなかった西武
1950年に2リーグ制がスタートして以来、親会社の変遷は共にあったものの、パ・リーグでしのぎを削り続けるホークスとライオンズ。その両チームの戦いの軌跡を見ると、ますます開幕が待ち遠しくなる。
ホークスの親会社がダイエーからソフトバンクに変わって15年。この間、ソフトバンクは5回のリーグ優勝、6度の日本一に輝いた。対する西武は3度のリーグ優勝を果たし2008年には日本シリーズも制した。
しかしこの2年のペナントレースの結果は、両チームにとってはすっきりしないものであったに違いない。
昨年、ソフトバンクは3年連続で日本一となったが、ペナントレースでは2年連続で西武の軍門に下り、リーグ優勝を果たしていない。対する西武はリーグを連覇したものの、クライマックスシリーズでいずれもソフトバンクに敗れ、日本シリーズ進出を阻まれた。
パ・リーグが先行実施していたプレーオフ制度を、セ・リーグも導入して2007年に始まったクライマックスシリーズ。リーグ優勝と日本シリーズへの出場チームが異なったことは過去6度あるが、2年連続ペナントを制しながら日本シリーズに出場できなかったケースは18~19年の西武以外にない。西武にとってはリーグ3連覇と同時に、20年はぜひとも日本シリーズ進出を果たしたいところだ。
1781試合を戦ってきた両チームの軌跡
さて、この両者はセパ2リーグ制となった1950年からペナントレースで1781試合を戦い、ホークスが860勝をあげ、833勝のライオンズをやや上回っている(引き分けが88試合)。だが、リーグ優勝はライオンズが23回、日本一が13回と、それぞれ18回と10回のホークスを上回る。激しく競い合ってきたライバルには、さまざまな因縁もある。
ホークスは南海(~88年)→福岡ダイエー(~04年)→福岡ソフトバンク
ライオンズは西鉄(~72年)→太平洋クラブ(~76年)→クラウンライター(~78年)→西武(~2007)→埼玉西武
若いファンには実感はないかもしれないが、今、福岡を本拠地とするホークスのルーツは、大阪にあった南海ホークスだ。南海はパ・リーグ発足後、1967年にBクラス(4位)になるまで、17年間2位以上で、その間に9回パ・リーグを制し、2度の日本一にも輝いた名門球団だった。
選手兼任監督で、チームの顔でもあった野村克也を77年に解任して以降は成績が振るわず、11年連続のBクラスとなった88年、ダイエーに球団を売却。本拠地を福岡市の平和台球場に移転し、球団名も福岡ダイエーホークスとなった。
この平和台球場は、同じく名門球団であった西武の前身である西鉄の本拠地だった。その西鉄が72年に球団を手放し、太平洋クラブ、クラウンライターと名を変えた後も本拠地としていた。だが、78年のシーズン終了後に西武が球団を買収し、埼玉県所沢市に移転することに。それ以来、九州からプロ野球の球団がなくなっていたが、福岡ダイエーが西鉄のかつての地盤に根をおろすことになったのだ。
なお、ホークスは93年に福岡ドーム(現福岡PayPayドーム)に本拠地を移し、平和台球場は97年に閉鎖された。
西鉄を黙殺した西武 野村抜きの南海の展示
また、両球団とも親会社が変わったことで、ちょっとしたあつれきを球団内で生むことになった。
西武は球団を買収してから2007年まで、西鉄をルーツとすることについては消極的だった。西鉄は1967年こそ2位になったが、68年、69年は5位、70年からは3年連続最下位。さらに69年に敗退行為、いわゆる「黒い霧事件」で、一部の選手が永久追放処分となるなど戦力が低下した。そこから身売りを余儀なくされたということもあり、西武がイメージの一新を狙ったことも理由のひとつだったかもしれない。
しかし、買収当時のオーナーだった堤義明が、2004年、有価証券報告書の虚偽記載の発覚でグループ経営の一線から退くと徐々に状況が変わっていった。08年からは歴史的なつながりを認めるようになり、今では西武ライオンズのホームページに、西鉄時代のことも取り上げられている。
一方のホークスは、ダイエー、ソフトバンクとオーナー企業が変わっていく中でも、南海時代を球団の歴史として評価してきた。だが、かつての球団の顔であった野村克也に関しては、前述の通り退団に追い込まれた形となったためか、未だに南海との間にわだかまりを抱えているようだ。
南海がかつて本拠地としていた大阪球場の跡地につくられた大型商業施設「なんばパークス」。その中に「南海ホークスメモリアルギャラリー」が開設されているが、野村に関する記録は、故人となった今も残されていない。
南海を解任された野村がロッテを経て西武に移籍し、現役生活を終えたということも何か因縁めいている。
西武の中心選手がソフトバンクの指揮官に
さらに両チームには別の物語もある。
クラウンライター時代から監督を務め、初代西武監督となった根本陸夫は、球団管理部長を兼務し、1982年、広岡達朗を監督に招聘した。積極的な補強で西武の黄金時代の礎を築いた根本は、その後退団して93年にダイエーへ。ここでもフロントとして代表取締役専務、球団本部長をしながら94年まで監督も務めた。
実質的なGMとして王貞治を後任監督へ招いた一方で、西武から多くの選手を獲得した。81年から中心選手として西武を牽引した石毛宏典は、94年シーズン終了後にFAでダイエーに移籍。2015年からソフトバンクの監督を務めている工藤公康。彼も1982年に西武に入団後、投手陣の中心として活躍したが、94年のシーズン終了後にFA宣言し、ダイエーに移籍した。
その前年の93年オフには、西武の主軸であった秋山幸二がダイエーにトレードされた。秋山は2002年シーズンで現役を引退。05年からソフトバンクが親会社となったホークスで、09年から指揮を執り、6年間で3度のリーグ優勝に導いた。2度目の日本一となった14年にユニホームを脱ぎ、その後任監督となったのが工藤だ。
つまり西武で育った選手たちが、後に指導者としてホークスを率い、古巣相手に激闘を繰り広げているというわけだ。
パ・リーグを支えてきた両チームは、さまざまな歴史や因縁をまといながら大河ドラマのように激しく競い合っている。未だ開催時期などが不透明な20年のペナントレースだが、新たなドラマが生まれることに期待したい。
2020年プロ野球・福岡ソフトバンクホークス記事まとめ
2020年プロ野球・埼玉西武ライオンズ記事まとめ