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日本人初の9秒台を達成した桐生 10秒01からの4年を振り返る(9)

2017 10/17 11:15きょういち
陸上競技
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出典 zhengzaishuru/Shutterstock.com


日本人初の9秒台を達成した桐生10秒01からの4年を振り返る(8)

 2014年4月。桐生祥秀は京都・洛南高を卒業し、東洋大の1年生となっていた。

 その年の4月29日、1年ぶりに桐生はあるレースに臨んだ。織田記念。ちょうど1年前、日本歴代2位の10秒01をマークし、一躍注目を浴びるきっかけになった大会である。

 ユニホームの色はピンクから鉄紺に変わり、髪形は丸刈りから少し伸びたものに変わっていた。

 予選での桐生の走りは10秒10と自己2番目の記録だった。スタートはあまりよくなかったが、持ち味である中盤からの加速で抜け出した。終盤は体が後ろに反る悪癖が出たが、タイムは悪くなかった。大学生になったばかりのレースとしては上出来だった。

漂う不穏な空気

 しかし、予選を終えた後、会場である広島ビッグアーチのサブトラック付近では不穏な空気が流れていた。

 桐生を指導する東洋大の土江寛裕コーチ、スポーツ用品メーカーの関係者、桐生の高校時代の恩師らが、集まって話をしていた。各人の表情に明るさはなく、10秒10というタイムを出した後とは思えない状況だった。

 そしてこの後、桐生は右太もも裏を痛めたということで、決勝を欠場した。

 「ここでけがをすると、今シーズンを棒に振ってしまう」と桐生はその時、話した。

 コーチたちの話し合いは、この欠場のことだったのだろうか。

甘い言葉になびく18歳

 話の内容は欠場のことだけではなかった。むしろ、メインは違うところにあった。

 このころ、桐生はあらぬ方向に進んでいた。土江コーチの言うことを聞かず、ほかの指導者の指導を受けていた。

 話は高校時代にさかのぼる。桐生は9秒台のプレッシャーにさいなまれていた。高校3年生の4月に10秒01を出したが、その後、記録は更新できなかった。自己2番目の記録で走っても聞こえてくる観客のため息。「やっぱり記録を出さないと満足してもらえない」と思うようになった。高校3年の秋の国体の時には、「10秒01から半年間、どうして記録が伸びないのか、焦りもあった」と語っている。

 そんな焦りがあったときに、「君なら9秒台で走れる」と言ってきた指導者と桐生は出会う。「骨ストレッチ」というものを基本とし、日本の古武術にも通じるような内容だったという。桐生はその指導を心酔し、秘密練習を行うようになる。

 (8)で書いたが、高校生活最後のレースとなった日本ジュニア室内という大会で、桐生は長距離のようなソールがあり、ピンが4本しかない奇妙なスパイクを履いていた。それは、この新しい指導者の教えの一つだった。高校時代から、桐生には異変が見られていたのだ。

コーチとの確執

 東洋大に入学当初、桐生は土江コーチにこう言い放っている。

 「土江先生は『おれがお前に9秒台を出させてやる』と言ってくれない。あなたに俺に9秒台で走らせる自信がないんだ。俺は五輪でファイナリストになる。そうするとここで誓え」

 土江コーチは理論派で細かいことを言ってくれるが、桐生にとってみれば肝心の「9秒台で走れる」とは言ってくれない。土江コーチにしてみれば、9秒台で走れる根拠がないと軽々しくは言えない。でも、桐生にとってはそれが嫌だった。

 逆に高校時代に知り合った指導者は「9秒台で走れる」と言ってくれる。どちらについていくかと言えば、当時の桐生にとっては明らかだった。

 大学生になってからというもの、本来の指導者である土江コーチの言うことは聞かなくなった。スタート前に腕や肩を動かすルーティンが増えた。

 走り方も変わった。力任せに足を回す走りになった。10秒10の織田記念の走りがそうだった。力を使って走る。だから、終盤は体が後ろに反り返る悪い癖も出た。さらには、力を使いすぎるから、ケガもする。織田記念ではまさにその通りの結果になってしまった。

 織田記念の予選後、コーチや恩師たちが集まって話していたのは、桐生の目を覚まさせ、いかにして骨ストレッチを教える指導者と決別させるか、だった。(続く)