漂う不穏な空気
しかし、予選を終えた後、会場である広島ビッグアーチのサブトラック付近では不穏な空気が流れていた。
桐生を指導する東洋大の土江寛裕コーチ、スポーツ用品メーカーの関係者、桐生の高校時代の恩師らが、集まって話をしていた。各人の表情に明るさはなく、10秒10というタイムを出した後とは思えない状況だった。
そしてこの後、桐生は右太もも裏を痛めたということで、決勝を欠場した。
「ここでけがをすると、今シーズンを棒に振ってしまう」と桐生はその時、話した。
コーチたちの話し合いは、この欠場のことだったのだろうか。
甘い言葉になびく18歳
話の内容は欠場のことだけではなかった。むしろ、メインは違うところにあった。
このころ、桐生はあらぬ方向に進んでいた。土江コーチの言うことを聞かず、ほかの指導者の指導を受けていた。
話は高校時代にさかのぼる。桐生は9秒台のプレッシャーにさいなまれていた。高校3年生の4月に10秒01を出したが、その後、記録は更新できなかった。自己2番目の記録で走っても聞こえてくる観客のため息。「やっぱり記録を出さないと満足してもらえない」と思うようになった。高校3年の秋の国体の時には、「10秒01から半年間、どうして記録が伸びないのか、焦りもあった」と語っている。
そんな焦りがあったときに、「君なら9秒台で走れる」と言ってきた指導者と桐生は出会う。「骨ストレッチ」というものを基本とし、日本の古武術にも通じるような内容だったという。桐生はその指導を心酔し、秘密練習を行うようになる。
(8)で書いたが、高校生活最後のレースとなった日本ジュニア室内という大会で、桐生は長距離のようなソールがあり、ピンが4本しかない奇妙なスパイクを履いていた。それは、この新しい指導者の教えの一つだった。高校時代から、桐生には異変が見られていたのだ。
コーチとの確執
東洋大に入学当初、桐生は土江コーチにこう言い放っている。
「土江先生は『おれがお前に9秒台を出させてやる』と言ってくれない。あなたに俺に9秒台で走らせる自信がないんだ。俺は五輪でファイナリストになる。そうするとここで誓え」
土江コーチは理論派で細かいことを言ってくれるが、桐生にとってみれば肝心の「9秒台で走れる」とは言ってくれない。土江コーチにしてみれば、9秒台で走れる根拠がないと軽々しくは言えない。でも、桐生にとってはそれが嫌だった。
逆に高校時代に知り合った指導者は「9秒台で走れる」と言ってくれる。どちらについていくかと言えば、当時の桐生にとっては明らかだった。
大学生になってからというもの、本来の指導者である土江コーチの言うことは聞かなくなった。スタート前に腕や肩を動かすルーティンが増えた。
走り方も変わった。力任せに足を回す走りになった。10秒10の織田記念の走りがそうだった。力を使って走る。だから、終盤は体が後ろに反り返る悪い癖も出た。さらには、力を使いすぎるから、ケガもする。織田記念ではまさにその通りの結果になってしまった。
織田記念の予選後、コーチや恩師たちが集まって話していたのは、桐生の目を覚まさせ、いかにして骨ストレッチを教える指導者と決別させるか、だった。(続く)