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ボルト、最後の世界陸上へ(2) ~偉大なスプリンターを振り返る~

2017 8/1 12:11きょういち
ボルト
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出典 Shahjehan / Shutterstock.com

ボルト、最後の世界陸上へ(1) ~偉大なスプリンターを振り返る~

 2011年に韓国・大邱で行われた陸上の世界選手権は、当たり前のごとく大会前からウサイン・ボルト(ジャマイカ)一色だった。

 2008年には韓国のお隣の国、中国・北京で100メートル、200メートルでともに世界新をマークして金メダル。翌年の世界選手権ベルリン大会でも、両種目の世界記録を更新して金メダル。もはや、陸上界を超えて、世界のスポーツ界のスーパースターとして、確固たる地位を確立していた。

 それでも、ボルトは言っていた。

 「世界選手権と五輪でもう一度勝って伝説になりたいんだ」

 その言葉を実行するために、大邱に乗り込んできたはずだった。

まさかの失格

 男子100メートルの決勝を見つめる観衆の視線は、ボルトに向けられていた。

 だが、ボルトはフィニッシュラインを超えることができなかった。号砲が鳴る前にスタートを切ってしまい、失格となった。

 2年前までの世界選手権ではルールが違った。誰かがフライングをした後は、誰がしても失格になるというものだった。だが、その後にルール変更。誰でも1回目のフライングから失格になることになった。そのルールが最初に適用された世界大会が大邱の世界選手権。その餌食になったのは、最大のスター、ボルトだった。

 ボルトはフライングをすると、ユニフォームで顔を覆い、スタート地点を後にした。筆者はすぐに取材ゾーンに走ったが、ボルトは現れなかった。

 このレースで勝ったのは、同じ陸上クラブで練習するヨハン・ブレーク(ジャマイカ)。「まさか、ウサインがフライングをするとは思わなかった」と語った。

 男子200メートルでは、ボルトは19秒40という自己3番目のタイムで優勝し、100メートルの雪辱を果たした。

 だが、フライングのルール改正もあり、以前のような記録はもう出ないだろう、と言われ始めた。もっと速い世界記録を出してほしい、という思いとともに、ボルトが負ける日が来るのではないかともささやかれ始めた。

 ボルトは25歳になっていた。

ボルトが敗れた2012年

 五輪イヤーだった2012年、ボルトは口癖のように言っていた。

 「俺は伝説になりたい」

 これは100メートルと200メートルの五輪2大会連続2冠をロンドン五輪で達成するということである。生きたまま伝説になること、つまり「生ける伝説」になることを目標に掲げていた。

 伝説になりたいという夢は、記者会見で語るだけではなかった。親友で、レゲエミュージシャンのD Majorはこう語っていた。

 「ボルトはよく伝説になりたいと言っている。それはロンドン五輪の100メートルと200メートルで優勝することだと」

 しかし、落とし穴はその直前にやってきた。

 ロンドン五輪の1カ月前に行われたジャマイカ選手権。日本の競技場に比べて観客席はそこまで大きくないものの、メインスタンドは満員だった。陸上がメジャースポーツであるジャマイカらしい、熱気に包まれていた。

 ここに詰めかけたファン、メディアはそうはお目にかかれない場面に2度も遭遇する。

 まず、100メートルでボルトがブレークに敗れて2位に終わった。タイムは9秒86。優勝のブレークは世界歴代4位の9秒75。確かにハイレベルではあったが、ボルトがフライングによる失格以外で、100メートルで負けるのは約2年ぶりだった。

 「仕方がない。こういう時もある」

 レース後、ボルトはTシャツで顔を半分覆いながら、表彰式に向かった。

 そして、ボルトは200メートルでもブレークに敗れた。この種目で敗れるのは約5年ぶりというから、驚きである。それも残り60メートルで抜かれてしまった。

 「時々負けるのはいいこと。頑張ろうと思える」

 そうは言いながらも、レース後は右太ももを押さえて苦悶の表情。この大会の後に出場を予定したレースはキャンセルする羽目になった。

 2012年は、ボルトが26歳になる年。さすがに人類最速の男も、2大会連続2冠は無理かと思わせる空気が漂っていた。

(続く)