北京のパフォーマンスで度肝を抜く
圧倒的なスピードに加え、スタート前に髪を整えたり、ゴール後に弓を射るポーズをとったりするパフォーマンスをするなど、ボルトはこれまでのスプリンターとは少し違う選手だった。
多くの日本人にとって、ウサイン・ボルトというスプリンターという存在を初めて認識したのは、2008年の北京五輪男子100メートルの決勝だろう。
終盤は腕で胸をたたき、躍るような走りで当時の世界記録となる9秒69で金メダル。史上空前のパフォーマンスで、見るものの度肝を抜いた。
「勝つためにここ(北京)に来た。世界記録が出るなんて思わなかった」
当時21歳だったボルトは、レース後にそうコメントしている。
そして、男子200メートル決勝では、向かい風0・9メートルという不利な条件のもと、マイケル・ジョンソンが持っていて不滅の世界記録と言われた19秒32を0秒02更新する19秒30で金メダル。一気に、2種目の世界記録保持者になった。
実は大阪でも走ってました
北京五輪の年に、いきなり出てきた感じがするボルトだが、実は17歳で2004年アテネ五輪に200メートルで出場している。その時は1次予選落ちだった。翌2005年の世界選手権ヘルシンキ大会では200メートルで決勝に進むも最下位の8位に終わった。
まだ、記憶に残っている人もいると思うが、2007年の世界選手権は大阪で行われている。この時もボルトは出場している。
200メートルと400メートルリレーで銀メダルを獲得したものの、この大会は100メートルと200メートルで2冠を達成したタイソン・ゲイが最大のヒーローであり、ボルトはゲイの引き立て役でしかなかった。
「必死に走ったがゲイには勝てなかった。でも銀メダルを誇りに思う。ゲイを倒すという来季への目標ができた」
200メートルのレース後のボルトのコメントである。世界最速のスプリンターとなった今となってみれば、ボルトが誰かを倒す、というのが目標なのは、いささか不思議な感じもするが、成長過程にある時のボルトのコメントというのは初々しいものがある。ボルトはこの言葉を翌年の北京五輪で実行することになる。
ベルリンで不滅の記録
現在ボルトが持つ100メートルの9秒58、200メートルの19秒19の世界記録は、ともに2009年世界選手権ベルリン大会でマークされたものである。
当時ボルトは22歳。体力的なピークはもう少し後だったかもしれないが、ルール変更が彼のピークをこの大会にしたのかもしれない。
現在、フライングは誰がしてもすぐに失格となるが、2009年当時は、各レースで最初のフライングがあった後は、誰が違反をしても即失格というルールだった。そして、この以前のルールの最後の世界大会が、このベルリンでの世界選手権だった。
100メートルの9秒58は圧巻だった。2位となったゲイも9秒71で世界歴代2位、米国新記録というタイムだったが、全く寄せ付けなかった。
「これは歴史に残るすごい瞬間だ。必ず世界記録を破る自信があったけど、0秒11も更新できるなんて思いもしなかった」
ボルトも、自身の快挙をこう表現した。
敗れたゲイのコメントもボルトのすごさを物語る。
「人間がこんなに速く走れることが分かった。残念ながらオレじゃなかったが」
200メートルでは自身が持っていた世界記録を0秒11も更新。2位に0秒62の差をつける一人旅だった。
「いつも言っているだろう。不可能なことなんてない、と」
そんなボルトの言葉に納得すらしてしまう。
圧倒的なスピードを武器に向かうところ敵なしのボルトだったが、敵は意外なところから現れた。
(続く)