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バレーボール女子日本代表”東洋の魔女”を振り返る

2016 10/12 03:34
バレーボール、日本
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Photo by ARZTSAMUI / Shutterstock.com

女子バレーボール日本代表を語る上で外せないのが”東洋の魔女”だ。 公式戦258連勝というとてつもない記録を作った”東洋の魔女”は、どのようなチームだったのだろうか。 その軌跡を振り返ってみたいと思う。

東洋の魔女とは?

東洋の魔女という愛称は、1964年の東京オリンピックより3年前の1961年に付けられている。当時の日本代表は1つの企業チームから多数の選手を集めて構成することが多く、その中心チームが日紡貝塚だった。 日紡貝塚が1961年にヨーロッパ遠征をして、代表チーム相手に22連勝を達成した際に、現地のスポーツ紙が”東洋のタイフーン”、”東洋の魔法使い”といった見出しをつけた。それを日本の新聞社が”東洋の魔女”と言い換えたのが始まりだ。
体格で劣る日本が世界と戦うために編み出したのが”回転レシーブ”だ。この回転レシーブを軸とした守りのバレーを展開し、連戦連勝を果たして公式戦258連勝を達成したのだ。

監督は鬼の大松

東洋の魔女を率いていたのは”鬼の大松”と恐れられていた大松博文(だいまつ・ひろぶみ)だ。大松博文はスパルタトレーニングが有名で、当時企業で働いていた選手たちは16時に退社してから深夜まで練習に励んだ。深夜と言っても朝方までの練習も珍しくなく、早朝5時まで練習していた時もあったと言われている。大松は「相手が”10”練習してるならこっちは”15”練習しろ!」といったやり方だった。
それに音を上げることなくついてきた選手たちが東京オリンピックで花開く。初めてオリンピックに正式種目として採用された東京オリンピックで、回転レシーブを駆使して金メダルを獲得するのだ。選手たちをやる気にさせた大松博文の「俺についてこい!」は有名で映画化もされている。

東京オリンピック以後

大松博文率いる東洋の魔女こと女子バレーボール日本代表の選手は、東京オリンピックの金メダルを最後に次々と引退する。まず、大松博文監督が引退。そして中心選手だった河西昌枝、谷田絹子、宮本恵美子、半田百合子、松村好子の5人も引退を表明する。彼女たちはみな30歳前後で結婚適齢期だったのも影響していた。大松博文は彼女たちの人生における幸せ、特に結婚に関しても心配していたようだ。
こうしてチームの中心選手たちが入れ替わり、ひとつの時代が終わったが、それでも敵はなく、1966年まで連勝記録は伸び続ける。しかし、ついに敗れる時が来た。1966年の世界選手権兼アジア大会代表選考会で連勝記録が途絶えたのだ。2458日ぶりの敗戦を喫し、東洋の魔女の連勝記録は258連勝で終わった。この記録は今後破られることはないだろう。

まとめ

東洋の魔女の軌跡はいかがだっただろうか。 名前を聞いたことがあっても、どのような歴史があるのか知らない方もいたのではないだろうか。 1964年のオリンピックから50年以上が経ち、大松博文監督、主将の河西昌枝はすでに鬼籍に入っている。 しかし、1964年の感動が忘れられることはないだろう。”東洋の魔女”の想いは、今も生き続けているはずだ。